教員になろうと思ったのは、一言で言うと「人」に関わる仕事が一番面白いだろうと思ったからである。以来、教員生活36年、担任として、授業を通じて、実に多くの生徒諸君と付き合ってきた。その中から、あえて最も印象に残る一人となると、教員になって間もない20代後半、郡部校で担任したA君である。彼ももう50に近く、時効とみて許してくれるだろうから、彼の思い出を記したい。
A君は、その高校でもとびきりの暴れん坊であった。時々の社長登校では、説諭を超えて口論となり、時には揉み合いになって跳ね返されているのは身体の小さい私の方だった。
ケンカ、喫煙、パチンコ等で彼は何度か謹慎処分を頂戴し、その都度、私は彼の家を訪ねた。親父さんともすっかり馴染みになり、夜の訪問時には、親子ほども年の違う親父さんの手元の一升瓶から勧められるままにコップ酒になり、部屋から出てきた彼に「センセ、あまり呑むもんでネェ」と、逆にたしなめられたりした(当時、私は車の運転ができなかった)。
そんな彼も、ギリギリのところで放校は免れた。彼には妙な愛嬌と人懐こさがあり、我々教員も、彼の屈託のなさやある種の任侠にも似た親分肌の振る舞いに憎めないものを感じていた。
卒業を前に、彼は関東地方の木材会社に就職が決まった。会社の所在地が競艇でも有名な町であるのが気になったが、彼は張り切っていた。最後に私は言った。「10年辛抱しろ。その会社で10年辛抱できれば、お前は社長になれる。バクチには手を出すなよ」
すると彼は「俺はもうパチンコはやめた。それよりセンセ、覚えていてくれ。俺は社長になる。社長になって、東京の若いキレイな女性をたくさん紹介してやるから、センセ、その中から一番気に入ったのをヨメにしてくれ」と、その時は当地の訛りで、例の屈託のない顔で豪気にのたまうたものである。
そして、そんなセリフも忘れかけて20年程も経った頃、1枚の挨拶状が舞い込んだ。差出人は《株式会社○○ 社長A・H》とある。冗談でも、夢でもない。
聞けば、ダントツの営業力を見せた彼に倍の給料を出すと言った会社を振り切って、あえて危険な独立をしたという。彼は「俺は、寝ないで稼いだ」と言った。
その後、彼の会社は順調に伸びた様子であった。私は会う度、電話の度に「いい気になって冒険しすぎるなよ」と小心なことを言うが、彼はすっかり標準語になって、「昔の俺とは違うよ。競艇はチョットやってるけどね」と、相変わらず屈託なく笑っている。
しばらくして、たまたまの上京の折に、彼が是非俺の会社を見てくれと案内してくれた。広大な敷地と木材の山の一角にある事務所に入ったら、彼は自分のデスクの後方をにこやかに指さした。見ると、小さな神棚の隣に、彼と私が並んだ酒席でのスナップ写真が掲額してあった。いつぞやのクラス会で撮ったものという。私は何とも言えぬ気恥ずかしさを覚えたが、その夜の2人の酒では、つくづくと教師冥利を味わったことであった。
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