東北の片田舎の農家に生まれ、大家族に囲まれ、中学までは野山を裸足で駆け回って育ちました。
高校時代のある日、履物が見当たらないので、仕方なく裸足で砂利道でのマラソン練習をしたことがありました。案の定、全指に肉刺(まめ)をつくり、しかも破ってしまいました。バスケットボール部にとって大切な試合を控えた時期だったにもかかわらずです。
雷覚悟でこの失態を監督に告げたとき、選手全員に対し静かな口調で「もっと自分を大切にしろ」というお諭しがありました。当然、大会では優勝はおろか散々な結果となりました。家庭を犠牲にして毎日付ききりで指導いただいた監督にはもちろんのこと仲間にも申し訳なく、ただただ己の愚かさを悔やむばかりでした。
あれから40年以上経た今日でも、生来の向こう見ずで意地っ張りな性格が時々顔を出しそうになります。正に“三つ子の魂百まで”
です。そんな時にはいつも、40年前の恩師の戒め「家庭を、仲間を、そして周りの人々を慈しめ」を思い起こします。
恩師である監督との出会いがなかったら私は教師にはなっていなかったろうと思います。大好きなバスケットボールと物理を教えられるなら最高に幸せだ、という単純な動機でした。バスケットボールの楽しさを知らせたい。そして身体を鍛え技術を磨き仲間と心を一つにして頂点目指して挑戦することから、努力は報われるという成功体験、対人関係能力、それに不撓不屈の精神力を身に付けてほしい。また日本人が得意とする数学や物理の能力を発見し伸ばし、我が国の科学技術の発展に寄与する人材を輩出して、国の基盤を支えてもらいたいという思いで教員生活のスタートを切りました。
教え子は地元に残って数学や理科の教師、バスケットボールの指導者として、また、県や市の職員、医師等々、都会に出て企業や大学の研究者になり活躍しています。時には本校の土曜講座「海草向陽塾」の講師として来校してくれます。私をどんどん乗り越えて大きく成長した姿を見るのは何よりも嬉しく、教師冥利に尽きるとはこのことです。
今日の我が国の人々の心の荒廃した惨状を見るにつけ、それをくい止め、日本人の精神の脊梁を、そして日本全体を正さなくてはならないと痛切に思います。若者には吉田松陰の「俊傑の学」を追求した大志を抱いてもらいたい。また、指導者は松陰の才能を見いだし、希代の逸材に育てた松下村塾の創設者、玉木文之進の必至の覚悟に学ぶべきものがあります。
幸い本校には前身の海草中学校三澤糾初代校長の身体鍛錬を教育の根本に据えた「質実剛健」の校風が色濃く残っており、生徒の気質も「純朴」でありますので「日本の、いや世界の指導者目指して頑張れ」と檄を飛ばしています。我々の半生は戦後の国の歴史と重なります。廃墟と化した国土、打ち拉(ひし)がれた心、復興、経済成長、バブル崩壊、人心の荒廃、これら皆、良きにつけ悪しきにつけ我々の責任です。国の確かな行く末を見極めるまで頑張る覚悟です。 |