指導変革の軌跡 千葉県立姉崎高校
渡邉啓之

▲千葉県立姉崎高校教頭

渡邉啓之

Watanabe Hiroyuki
教職歴27年。同校に赴任して2年目。「生徒の笑顔あふれる、呼吸の合った、楽しい授業を実践していきたい」

米山茂

▲千葉県立姉崎高校

米山茂

Yoneyama Shigeru
教職歴23年。同校に赴任して4年目。進路指導主事。「物事は必然。客観的なデータに基づく多面的な考察を大切にしたい」

御園生洋一

▲千葉県立姉崎高校

御園生洋一

Misonou Yoichi
教職歴21年。同校に赴任して5年目。教務主任。「何事にも好奇心を失わず勉強していきたい」

平野善彦

▲千葉県立姉崎高校

平野善彦

Hirano Yoshihiko
教職歴19年。同校に赴任して5年目。生徒指導主事。「生徒の自立と自律を促し、生徒自らが考える授業を実践していきたい」

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正門にテントを張り徹底的な校門指導を展開

 転機は03年11月に訪れた。生徒指導の徹底によって学校の再生を目指す、千葉県の「自己啓発指導重点校」に指定されたのだ。渡邉啓之教頭は、当時の状況をこう振り返る。

「初めての定員割れに加え、退学者が100人を超えたことが新聞に取り上げられ、どん底の状態にありました。すべての教師が『このままではいけない』という危機感を抱き、指導に当たっていましたが、退学者を減らそうとするあまり、学校に来ない生徒にばかり目を向けていました。校内の指導に目が行き届かないという悪循環に陥っていたのです」
 県の教育事業の指定を受け、更に、04年度には生徒指導の実績を持つ白鳥秀幸校長(当時)が赴任。強力なリーダーシップの下、全校一丸となって改革に当たる体制が整った。改革の柱は、徹底した生徒指導と、学校設定教科「マルチベーシック」による基礎学力の定着だ。
 生徒指導は、校門指導から始めた。正門にテントを張り、毎日朝8時から6限終了まで、教師が交代で校門に立ち、服装・頭髪指導を徹底した。服装や頭髪の乱れた生徒には直してから登校するよう促し、校門前に座り込む生徒は無理やり帰した。遅刻や授業中の問題行動に対しては、「問題行動指導カード」で警告し、累積5枚で特別指導の対象とした。
 教師間の指導の差を少なくしようと、「授業マナー巡回指導」も取り入れた。授業中に居眠りや私語、飲食、化粧などをしている生徒がいれば、巡回の教師が教室に入って厳しく指導した。この方法に対しては、「授業中のことは、授業担当者が指導すべき」という意見も出されたが、あまりにひどい状況であれば、体面や原則論にこだわることなく厳しく対処すべきという声が多数を占め、実施に移された。
まさに、全校を挙げての「聖域なき生徒指導」が展開されたのだ。

無力感にさいなまれながらも教師間の団結で前進

 教師は断固とした態度で指導に臨んだが、一朝一夕で改善されるものではないのが生徒指導の難しさだ。指導に従わない生徒と相対する中で弱気になることもあったと、05年度に赴任した生徒指導主事の平野善彦先生は打ち明ける。

 「私が赴任してすぐ担任となった3年生は、『重点校』に指定された時に2年生だった生徒です。2年生になったらいきなり指導が厳しくなったという経緯もあり、3年生になっても教師の指導に耳を傾けない生徒が多くいました。1クラス約20人の5クラスの学年で、全クラスの授業を担当していましたが、毎日、注意と指導をするばかりで、授業らしい授業をすることができた日はほとんどないほどでした。そんな徒労感と無力感から教員生活の中で初めて学校に行きたくないと思いました
  平野先生に限らず、心身共に消耗する教師は多かった。それでも教師を前に進ませた力は、校内の結束だ。教務主任の御園生(みそのう)洋一先生は、厳しい現実があったからこそ結束できたと話す。
 「定員割れというどん底を見たことが、かえって『一致団結しよう』という共通意識を生みました。更に、地道に指導を積み重ねていく中で、学期ごと、年度ごとに、生徒の意識が確実に変わっていることを肌で感じました。その実感が、改革に対する教師の意欲を更に押し上げていたと思います」
 カバンを持たずにペットボトルだけを持って登校する生徒は姿を消し、年間延べ1万8千人を超えていた遅刻者数も08年には延べ千人台にまで減った。08年度には巡回指導を行わなくても、秩序ある授業が成立するまでに生徒の態度は改善されていた。
 「就職した卒業生からは、『社会に出ると、つらいことがたくさんあるけれど、高校時代に厳しい指導を受けてきたので頑張れます』『就職して先生の言っていたことがよく分かりました』といった声が寄せられています。これまでの指導が間違っていなかったということを再確認できました」(平野先生)

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