教育ジャーナリストの後藤健夫さんがお送りする連載「大人たちのアンラーニング」のススメ。第1回は教育におけるアンラーニングとは何か、について考えます。

なぜ、教育にアンラーニングが求められているのか

最近、「アンラーニング(unーlearning)」という言葉をよく聞くようになりました。私はアンラーニングを「知のデトックス」と読み替えていますが、一般的には「学習棄却」と訳されて「学びほぐし」とも言われています。いままで持っていた知識や技能が習慣化して当たり前のものとして思考や行動が「癖」になってしまっているものの、実際にはそれらの知識や技能が通用しなくなっていることがあります。そうした「古いものを一旦忘れて、新しい状況での思考や行動を試みる」ことがアンラーニングです。
フィッシング詐欺、フェイクニュースなど、どんどん巧みになり、「情弱」では済まされなくなっています。一方で、高校生がスマホで撮る写真のセンスはどんどん磨かれています。デジタル社会は急激な進歩を遂げており、「昨日の常識は、今日の非常識」になりかねない勢いです。スマホは勉強の妨げになると思っていたら、スマホで勉強する時代になっています。我々は日々大量に降り注いでくる情報のなかで知識や思考をリファインしながら、こびりついた思考や行動の癖を取り除いていかねばなりません。

社会が変わるとき、アンラーニングを求められる

学校教育でも、小中学校を中心にGIGAスクール構想が展開され、一人一台、パソコンやタブレットなどの情報機器を手元に置いて授業を受けることが求められています。コロナ禍で学校が一斉休業になったときに、課題をプリントして郵送する教員のみなさんの大変さ、煩雑さが話題となった一方で、大学や高校では授業をインターネット配信するようになり、オンラインで双方向の授業がなされました。技術の進歩は日進月歩。昨日できなくても明日にはできるようなスピードで社会が変わっています。
そして、日本社会の大きな課題、少子高齢化においても教育のアンラーニングを求めています。わかりやすい変化は大学受験(18歳)人口の推移です。1992年には約210万人いた18歳がいまは約100万人。大学の定員は減るどころか増えています。大学の門はどんどん広くなっています。こうしたときに大学進学で求められる学力も変わってきているのです。

教育と社会を摺り合わせる、10年に1度のアンラーニングの機会

パリ第8大学で教員をしていた社会心理学者である小坂井敏晶さんは「教育は社会の中にあり、社会の影響を強く受けるものだ」と言います。一方で、その社会を変えるのは、その社会の中で学校教育を受けた若者です。だからこそ、学校教育は大事なのです。
社会が変われば教育も変わる。そして、教育が変われば社会も変わる。
変わりいく時代の中で、私たちは常にアンラーニングをして教育を捉えていくこと、教育の考え方や活動を、残すもの、改変するものを切り分けていき、リファインしていくことを求められています。

ところで、アンラーニングの必要性は、いま始まったわけではありません。文部科学省は10年に1度、学習指導要領を改訂しています。これにより、変わり行く社会と教育の摺り合わせをしています。これもアンラーニングの機会を学校に求めていると捉えられるでしょう。
中学受験を終えて入学した中1の授業では学ぶことの捉え直しに力点を置く学校が少なくありません。受験対策に偏った勉強法を、教科の本質を学ぶ学習法に転換しなければ、より広く多様な概念や考え方を学べません。また、中学受験、高校受験、大学受験では、それぞれ子どもの成長にともなって、保護者や教員の関わり方も変わります。
子どもの成長や学ぶ内容の進展などに合わせて、保護者のみなさんはアンラーニングを求められます。

教育の目的は若者のウェルビーイング

学校教育の最上位目的を若者のウェルビーイングとしたときに、保護者や教員といった大人たちが時代に合わせてアンラーニングをしつつ、若者の教育を支えていくことが目標を満たす道であろうと考えます。
「教育には誰もが口を出せる」と言われます。皆、教育を受けた経験を持つからです。でも、自分の経験に基づくその発言、大丈夫ですか?
この連載は、教育の潮流をトピックスとして取り上げてアンラーニングの機会にしたいと考えています。

次回以降、この「大人たちのアンラーニング」をいくつかのテーマに沿って紐解いていきます。

後藤 健夫

教育ジャーナリスト

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