こうした工夫により、普段はあまり発言ができない生徒も「○○君と同じ意見なんだけど…」と、他の生徒の発言を継ぐ形で意見を述べることができる。もちろん、言葉に詰まってしまうこともあるが、そんなときはすかさず付近の生徒がフォローに入る。日ごろから生徒の人間関係が築かれているからこそであろう。
一方、授業の中では手を挙げていない生徒が指名されることも珍しくはない。机間巡視を丁寧に行い、挙手していない生徒のつぶやきを丁寧に拾っているからこそできることだ。
「いや~、実はね、××君がさっき凄いことに気がついたんだよ。ちょっとみんなに聞かせてあげて」
実際、今回もそんな問いかけから授業が深まっていくシーンが見られた。「『寂しさ』ではなく『淋しさ』という漢字をあえて使ったのはなぜか?」という杉澤先生の問いかけに対し、ある生徒が、「『淋』という字には『林』という字が含まれているから、文字として句を見たときに、山深い立石寺の様子をうまく表現できる」と指摘したのだ。
この発言をきっかけに、句の読解はテキストの意味理解から、漢字による視覚表現を考慮したものにまで深まっていった。杉澤先生が当初狙っていた授業のゴールは、「『岩にしみ入る』の『岩』は、芭蕉の心を象徴的に表現したものだ」という読みに生徒をたどり着かせることだったが、どうやら生徒たちは、それを上回る深い読解を、そのプロセスで行えたようだった。
「この授業では、当初の授業案では想定していなかった発言もたくさん出ました。授業を見学した私自身、生徒とともに作品の読みを深めていったように思います。活発な話し合いを重視するスタイルもあれば、今日の授業のように聞き合いを重視するスタイルもあります。『学び合う授業』を目指して研究を進める過程で、徐々に先生方独自のカラーが出てきたように感じています」
(齋藤朗三校長)
研究授業終了後、全教師の参加のもと全体研修会が実施された。多くの場合、こうした研修会では、板書の仕方や、教具の使い方など、教師の指導技術に注目がいきがちである。だが、ここでは、あくまでも一人ひとりの生徒の「学び」に着目した反省が行われていた。
「ずっと手を挙げていたのに発言できなかった生徒がいた」
「もう少しでうまく答えを言えそうだった子がいたので、適切なフォローをすべきでなかったか」
「普段はあまり真面目に授業を受けない生徒が、今日の授業では前向きに課題に取り組んでいた。参加感を持たせる手法が参考になった」
などの発言が積極的に交わされていた。また、同校の授業改革に当初から関わり、今回もアドバイザーとして参加した首都大学東京の小国喜弘助教授からは「授業の目的が芭蕉自身の心情把握にあったのか、読解の多様性に気づかせることにあったのか不明確だった。いきなり芭蕉の心情把握に入る前に、中村草田男や齋藤茂吉の芭蕉に関する評論を読ませた上で、句の読解の多様性に気づかせることが先決でなかったか」との鋭い指摘もあった。
同校ではこうした研究会が頻繁に行われている。「学び合う共同体」づくりを目指した改革は、このような地道な実践の上に成り立っているのだ。
(VIEW21編集 渡辺直人)