自転車による全国47都道府県走破
橋本大樹
岩手大農学部農林生産学科4年(作物学研究室)
高校に入学した頃の僕は、何事にも今一つ本気になれない生徒でした。勉強は長い人生の中でいつかは役に立つものだろうと感じてはいましたが、将来の夢や目標を見つけていなかった僕は一生懸命取り組むことができませんでした。そんな僕が一人旅の魅力にとりつかれたのは高1の冬。千葉から鈍行列車を乗り継いで京都に行きました。それからは長期休暇の度に、北は北海道から南は屋久島、沖縄まで、鈍行列車やフェリーを使って国内中を旅しました。高校生の僕にはお金がありませんでしたから、資金づくりのため、放課後は毎日夜遅くまでアルバイトをしていました。
旅の魅力の一つは“人との出会い”です。 偶然、隣の席になった大学生や社会人と時間を忘れて語り合いました。初めて出会い、そして二度と会わない者同士だからこそ、心を開いて本音の話ができたのでしょう。狭い世界しか知らなかった僕にとっては、それはとても新鮮な経験でした。
「高校を卒業したら、自転車で全国を旅行してみよう!」。級友たちが大学受験に向けて勉強に打ち込んでいる頃、僕はそんなことを考え始めました。一体いつまで、どこまで旅をすることになるのか、僕自身にも分かりません。旅をして、その後どうする? 正直、不安もありました。でも、きっと何とかなる。いつか旅が終わって、そのとき大学に行くのか働くのかは分からないけど、とにかくいろんな人に会って、いろんなものを見よう……そんな気持ちでした。
卒業して3か月後、アルバイトで貯めた120万円を持って、僕は自転車をこぎ出しました。三陸海岸の長い坂道をひたすら北上し、北海道では荒波で浜に打ち上げられた鮭を食料にしました。宗谷岬から南下し、5か月後には沖縄の波照間島でテント生活をしていました。旅の途中、自転車を降り、長崎から船で上海に渡りました。長距離列車で4000キロを越える褐色の大地を走り抜け、今度は身動きするのも不自由なおんぼろバスのシートに収まって、タクラマカン砂漠を渡りました。パミール高原を越え、インダス川を下り、ネパールの首都カトマンズまで、約2か月かけてユーラシア大陸を周りました。日本に戻り、再び自転車で本土最南端の佐多岬から四国路を抜けて、豪雪の北信越ではバス停小屋に泊まったりしながら、ようやく千葉に戻ったときには、出発から1年半が過ぎていました。
旅に出る前の僕は、いつも「自分の居場所はここではない」と思っていました。僕は旅をしながら、自分にふさわしい場所、自分らしい生き方を探していたのです。野宿した星空の下、雨に打たれるテントの中には、自分を見つめ直す時間がたくさんありました。そして「場所が問題なのではなく、どこへ行こうと自分は自分でしか変えられない」ということに、僕はようやく気が付いたのです。旅の始まりは、弱い自分を認めることからの逃避だったのかも知れません。でも、旅の厳しさによって、初めて自分の弱さ、未熟さを素直に認めることができたのです。
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