VIEW21 2003.2  リーダー群像
 現状をどう捉え、どう行動したのか

 二人にとっては苦渋の決断だった。佳美さんの手術代として用意していた二千万円近いお金は、陽子さんの提案によって、心臓病の研究をしている施設に寄付することになった。
 しかし、主治医にそのことを話すと意外な言葉が返ってきたのである。
 ――そのお金で人工心臓の研究をしてみてはどうか。
 人工心臓の開発は、我が国でも何百億円という資金を投じてプロジェクトを組みながら完成できないほど難しいものだ。主治医も他の人にはこのような提案をしなかったに違いない。二人の熱心さを誰よりも知っていたからこそ、このような提案をしたのである。しかも、主治医も研究に協力してくれるという。筒井氏はこの提案を受け入れることにした。
 筒井氏は人工心臓の研究を始めるべく、東海高分子化学とは別に東海メディカルプロダクツを設立した。しかし二千万円という資金では、ある程度の研究はできても、医療機器として厚生省(当時)の認可を受けることなど不可能に近かった。そのため、創業当時は研究ばかりで利益などは出なかった。
 「お金にはあまりこだわらないで会社を始めました。当時はバブルが始まった頃でしたから、銀行や友達からは、株や土地に投資したら2倍にも3倍にもなるのに、そんな夢物語を追いかけてどうするんだって言われましたよ」

熱意と努力が
あらゆる困難を乗り越えさせる

 だが、研究だけしていたのでは会社が続かない。何か製品化できるようなものはないか。そう考えていた頃、筒井氏はIABPバルーンカテーテルに関する論文を目にした。86年のことである。当時、日本で使っていたバルーンカテーテルはすべて外国製品だったが、日本人にはサイズが大きいため合併症を引き起こす可能性が高く、破損事故が起きやすいといった危険性も抱えていた。
 「論文を読んだ時、日本人の体型に合ったサイズの小さいバルーンカテーテルを作れば、事故を少なくすることができるかも知れないと思いました。それには非常に高度な技術が必要で、当時、国産化は不可能だと言われていました。しかし、バルーンカテーテルは形が違うだけで人工心臓と作り方はほとんど同じですし、以前、検査に使う簡単なカテーテルを作ったこともあります。この2つの技術を合わせれば作れるに違いないと思ったのです」
 筒井氏は、早速バルーンカテーテルの開発に取り掛かった。初の国産化に挑む以上、日本人の体型に馴染む上に使いやすいものでなければ意味がない。そのためには医療機関の協力を得て、胸部大動脈から腹腔動脈までの距離や血管の太さなどを計測したり、それらと身長や体重との相関関係を調べたりして、設計をより精密にする必要がある。そこで、筒井氏は東京の大学病院との共同研究という形で、4年間に渡り開発に没頭した。
 89年、ついに初の国産バルーンカテーテルが完成した。それは、日本人の体型にフィットする上に強度も高く、血管内にも挿入しやすいという画期的なものだった。そして、これまで3万人以上の人々が、筒井氏のバルーンカテーテルによって命を救われたのである。この業績が認められ、00年に科学技術庁長官賞を、02年には黄綬褒章を受章した。
 これまで、筒井氏が一貫して社員に求めてきたのは「専門分野なんてなくてもいい。熱意を持って『一人でも多くの生命を救いたい』という会社のフィロソフィーに共鳴して、努力してくれさえすればいい」というものだった。
 「これまでは、自分は専門分野以外のことはできないとか、この分野は素人だからこの仕事には就けないとか、そういう意味での学歴社会を皆でつくっていたように思います。しかし世の中には、畑違いの分野で活躍している人はたくさんいます。これからは専攻分野の枠を越えて活躍する人がもっと増えるといいですね」


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