未来をつくる大学の研究室 分子生物学・アポトーシス

小林良彰

小林良彰 教授

こばやし・よしあき
1954年東京都生まれ。法学博士(政治学)。82年慶應義塾大大学院法学研究科博士課程政治学専攻修了。 ミシガン大学政治学部客員助教授などを経て、86年より慶應義塾大法学部助教授、91年より同学部教授。 現在は慶應義塾大多文化市民意識研究センター長も務める。専門は政治過程論、現代政治分析、政治理論。 多文化市民意識研究センターの研究成果をまとめた編著として、『叢書21COE―CCC多文化世界における市民意識の動態』(慶應義塾大学出版会)のシリーズがある。

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未来をつくる大学の研究室 05
最先端の研究を大学の先生が誌上講義!

慶應義塾大法学部政治学科/多文化市民意識研究センター
政治学

慶應義塾大の小林良彰教授は、政治システムを制度面からだけではなく、
「市民が政治にどんな意識を抱いているか」という視点から考える研究を続けている。
政治を市民の側から捉えると、民主主義の課題や民主主義を有効に機能させる方策が見えてくる。

政治学って?

より高次な政治システムの在り方を求めて

国や自治体の政治の仕組みと、それがどのように機能しているかを研究して、より高次な政治システムの在り方を模索していくことが、政治学の重要な目的の1つだ。政治学が対象としている学問領域は、政治史や政治思想、日本政治研究や地域政治研究、国際政治研究、政治権力研究など多岐に渡っている。最近では、政策が決定される過程や、その過程に民意がどのように反映されているかについての研究が、盛んに行われている。


教授が語る

「どこかおかしい」社会への疑問こそ政治学への扉です

小林良彰 教授

政治学との出合い
「どのように研究すればよいか」を自分たちで探した

 私が大学に入学したのは1973年です。ベトナム戦争(※1)沖縄返還問題(※2)などが、大きな社会問題となっていたころでした。当時は今と異なり、どうすれば社会がよくなるのか、市民の間で真剣に話し合う雰囲気がありました。実際、さまざまな市民運動があり、市民の手で社会を変えようとする動きが活発でした。私が政治学科を選んだのも、そうした世の中の風潮と無縁ではありません。社会の問題にしっかり取り組めるのが、政治学だと感じたのです。
 高校生の皆さんには想像できないかもしれませんが、私が大学に入学した年はまだ学生運動(※3)が激しく、キャンパスがロックアウト(※4)されていて、夏まで授業がありませんでした。困った私は政治学関係の勉強会に所属して、自分で勉強することにしました。一つはプラトンやアリストテレスなどの世界の名著を読むサークル、もう一つはマックス・ウェーバー(※5)を読むサークル、そして国際問題について研究するサークルです。
 教授はいないので、大学院生や学部生の先輩たちと一緒に本を読み、議論しました。誤読も多かったでしょうが、この時期に「人から知識を授かるのではなく、自分の力で考えながら本を読み、意見を持つ」という経験ができたことは、今の私を形成する土台の一要素となっています。
 ようやく授業が再開され、私は当然、教授がいろいろ教えてくれるものと期待しました。ところが、教授の言葉は意外なものでした。
 「これからは有権者の意識について研究する必要があると思う。どうすればよいか、きみたちで考えなさい」
 まだ1年生だった私は戸惑いました。今、振り返ってみると、私はちょうど日本で政治学が変化していく面白い過程を体験できたのだと思います。
 従来の政治学は、ドイツの政治学の流れをくんでいて、国を上からどう統治するかという研究が主流でした。しかし、第二次世界大戦を契機に、ナチスの迫害から逃れるためにアメリカに亡命した学者を含めて、統治する側からではなく、市民の側から政治を研究していこうという考えが盛んになりました。市民が政治に対してどんな意識を持ち、それが現実の政治にどのように影響しているかを探ろうというわけです。
 私が指導を受けた教授は、アメリカの最新の文献を読み、市民がどんな政治意識を持っているか、という研究を日本でも始めたいと考えていました。ところが、アメリカの政治学では、市民の意識を統計学の知識を用いて分析するという研究がほとんどです。
 そこで、私は工学部(現、理工学部)でコンピュータや統計学の講義を受け、新しい政治学に必要な知識を学びました。いわば教授と学生が一緒になって、日本でゼロから新しい政治学を研究していく場面に立ち会っていたのです。

用語解説
※1 ベトナム戦争 1960年から75年にかけて、ベトナムの統一をめぐって北ベトナムと南ベトナムの間で行われた戦争。実質的には、北ベトナムを支援する共産主義勢力のソ連(当時)・中国と、南ベトナムを支援する資本主義勢力のアメリカ・フランスの代理戦争だった。アメリカは全面的に軍事介入したが、戦線は泥沼化。アメリカだけではなく、日本やヨーロッパなどでも大規模な反戦運動が行われた。日本の米軍基地は、ベトナム戦線の補給基地の役割を果たした。
※2 沖縄返還問題  1951年のサンフランシスコ平和条約締結以降も、アメリカの施政権下に置かれていた沖縄では、本土復帰運動が続けられていた。60年代後半、ベトナム戦争が激化すると、沖縄は最前線基地としての役割が強くなった。そのため、復帰運動は反米・反戦色が濃くなった。アメリカは、沖縄での基地の継続使用を条件に沖縄返還に応じると、日本に提案した。この是非をめぐって日本国内では激しい議論が起きたが、71年、日本は沖縄返還協定に調印し、72年に沖縄の施政権がアメリカから日本に返還された。
※3 学生運動  主に大学を拠点として、学生が主体となって組織的に展開される政治的・社会的な運動のこと。60年代から70年代にかけて大規模に行われた。
※4 ロックアウト  施設や敷地への立ち入りを制限すること。大学側は学生運動をやめさせようと、学生に対して大学構内への立ち入りを禁じ、授業を行わなかった。
※5 マックス・ウェーバー  19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したドイツの社会学者。社会学の基礎をつくり、政治学や経済学の分野にも大きな影響を与えた。代表作の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』では、営利の追求を敵視する禁欲的なピューリタニズムが、実は近代資本主義の発展に大きな貢献をしたという論考を展開した。
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