私が最初に中央アジアを具体的に感じたのは、父の仕事の関係で北京に住んでいた小学生のころです。燃料に使う石炭を運んできたラクダを我が家の前で見たときでした。島国の日本と違い、この地が砂漠へ、中央アジアへ続いていることを実感しました。そこへいつか行ってみたい――。私は幼いころから雑誌『少年倶楽部』などの大陸や奥地を舞台とした冒険小説を読むのが好きでした。成長するにしたがい、探検家や研究者の書いた中央アジアの本、中でも、オーレル・スタインやスヴェン・ヘディンら学者の探検記に興味を持ち、「学問がなければ、いい探検はできない」と、私は大学に進もうと考えました。
志望校は中央アジアの研究ができる東京大の東洋史にしました。ただ、戦後間もなくのことで、東京大は女性に門戸を開いたばかり。多くの人に「合格は無理」と言われ、弱気になった私は受験をやめようとしました。そんなとき、ある先生が「落ちて元々、合格したら儲けもの」と言われ、大いに勇気づけられ、幸運にも合格できました。
東京大で研究する中で、私は次第にチベットに惹かれていきました。文献を読んでもわからないことが多く、どうしても現地に行きたいと思うようになったのです。しかし当時は、日本人にとってチベットはおろか、外国へ行くなどとは考えられない時代。周囲に理解されない中、ただ1人、「中根君、そのうちきっと行けるよ」と言ってくれたのが、京都大の有名な今西錦司先生でした。それはとても心強いものでした。
当時の中国は共産党政権の初期で、入国は不可能でした。そこで、インドに行ってヒマラヤを越えてチベットへ行けるのではないかと考えていました。そのころ、ロシア人の有名なチベット学者がチベットの古典の英訳本をインドの出版社から出したことを知り、手紙を送ったところ、「インドに来たらチベット学を教えましょう」と嬉しい返事をくれたのです。運良く日印条約締結によって始まったインド政府の留学生試験に合格して、インド行きが実現しました。
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