自然の中で遊ぶのが大好きな子どもでした。小学校は東京にありながら自然に囲まれた環境だったこともあって、毎日チョウやトンボを追いかけて過ごしました。持ち帰ったカマキリの卵が孵化し、小さなカマキリが家中に溢れて大騒ぎになったこともありましたよ。そうやって自然と遊ぶうちに、いつの間にか、生物、自然科学に興味を持つようになったんです。
旧制中学校は、第1志望が不合格だったんです。それで、私立に進んだのですが、不合格になった悔しさを晴らそうと一生懸命勉強しました。それでも、休みの日には山に出かけ、虫を追いかけていましたが。
旧制高等学校では、学問的にすばらしい先生にたくさん出会いました。特に、生物学の分野で一流の学者の指導を受けられたのは幸運でした。実習では顕微鏡を持って海に出かけ、ウニの受精卵を観察したりしました。細胞が分裂する様子は何とも摩訶不思議で、生き物は面白いなぁと思ったものです。
けれど、当時の日本は太平洋戦争に突入し、学徒出陣も始まっている状況。3年間のはずの学生生活は、戦争の影響で2年間に短縮され、おまけに工場での勤労奉仕もあり、ろくに勉強はできませんでした。その後、私は東京大医学部に進学しましたが、勤労奉仕の出席率など内申書が評価されてのことで、決して難しい試験を突破したのではありません。それに、軍医不足を解消するため、ちょうど定員が1・5倍になったときでもあったのです。
それに、進学の動機も「生命を守りたい」といった純粋なものではありませんでした。「医学部なら卒業までは徴兵されずに済む」と考えたのです。既に空襲が始まり、目の前で家が焼かれ、人が死んでいました。自分だっていつ死ぬかわからない…そんな状況でしたから、将来のことなんてじっくり考えられなかった。生物学に興味はあったけれど、「とにかく命あっての物種だ」。そう思ったのです。
だから、戦争が終わったとき、私は空襲で焼かれないよう、下宿の庭に穴を掘って埋めていた書物を取り出して「これからは、本が燃えるかなんてもう心配しなくていいんだ」と心からホッとしたものです。
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