10代のための「学び」考

西澤潤一

西澤潤一

にしざわ・じゅんいち
1926年宮城県生まれ。東北大工学部卒業。東北大電気通信研究所教授、同所長、東北大総長、岩手県立大学長等を経て現職。83年ジャック・A・モートン賞、00年米国電気・電子学会(IEEE)のエジソンメダル等を受賞。02年には長年の業績が称えられ「IEEE西澤メダル」が設けられた。これは工学分野における最高の栄誉といわれる。著書に『赤の発見 青の発見』(共著、白日社)、『新学問のすすめ 21世紀をどう生きるか』(本の森)等。

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10代のための「学び」考

西澤潤一

首都大学東京学長 日本学士院会員
「強い頭」と愚直一徹の精神が独創的な研究成果を生み出す

 「ミスター半導体」「光通信の父」と呼ばれ、技術立国日本の礎を築いた立て役者の1人である西澤潤一教授。光ファイバー、高輝度発光ダイオードなど、半導体・光通信の分野で世界的な業績を上げてきた。首都大学東京の学長として教育改革に尽力しながら、80歳を過ぎた今も現役の科学者として研究の第一線に立つ西澤教授に、研究の原点と独創性の秘訣を聞いた。

戦争体験を機に「社会貢献がしたい」

 小学生のころから「決して人真似はしたくない」という思いが人一倍強く、教えられた通りに答えるのが嫌いでした。先生に質問されてもわざと違う表現で答えていたので、しょっちゅう怒られていました。どうしても学校や勉強が好きになれず、中学時代までは成績もあまり良くありませんでした。
 理系の研究職を選んだのは、親父の影響です。親父は東北大工学部の教授だったこともあり、私も子どものころから何となく研究の世界に進もうと思っていました。私は物理や数学など基礎研究の分野に興味があったのですが、親父には「お前みたいに成績の悪い奴じゃ飯も食えない。つぶしの利く工学部に入れ」と言われました。ですから、私にしてみればいささか捨て鉢な気持ちで、しぶしぶ親父の勧める電気の分野に進みました。
 それでも工学部で頑張ることができたのは、戦争体験を機に、社会に貢献したいという強い思いが、私の中に芽生えたからです。私が大学1年生のとき、日本は終戦を迎えました。私は焼け野原に立って、これから日本人が食べて、生きていくためにはどうすればよいのだろうかと真剣に考えました。国土が狭く資源も少ない日本は、工業に頼らなければ栄えないだろう。でも、生半可なものをつくっていたら、原料が安く手に入る国にはかなわない…。そこまで考えたとき、気づいたのです。「よそでつくられていないものを発明するのが工学部の使命。今、自分がいる工学部こそが、日本を自立させるために必要なところなのではないのか」と。その思いが、私の研究の原点になったのです。


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