大隅典子 教授
おおすみ・のりこ東京医科歯科大大学院歯学研究科修了。同大歯学部助手、国立精神・神経センター神経研究所室長を経て、現在、東北大大学院医学系研究科教授。専門は発生生物学、分子神経科学。グローバルCOE「脳神経科学を社会に還流する教育研究拠点」の拠点リーダー。2006年、科学技術政策研究所が科学技術に顕著な貢献を果たした研究者に贈る「ナイス ステップな研究者 in 2006」を受賞。 *プロフィールは取材時(08年3月)のものです
神経発生学って? 「心」の動きを科学的手法で解明していく
学習や記憶、情動といった高次機能を司る脳は、どのように形成されているのか。これを解明することは、「人間」という存在への理解を深めるだけでなく、脳機能障害などによる精神疾患の予防や治療を開発する上でも極めて重要な課題である。神経発生学では、脳を中心に神経系と呼ばれる器官の発生・発達のメカニズムを遺伝子レベルで研究している。従来、心理学や哲学の研究領域だった「心」の動きを科学的手法で解き明かそうとしていることでも注目されている分野だ。
神経発生学は、神経系(※1)がどのように発生して発達するのかを解き明かす学問です。といっても、あまりピンとこないかもしれませんね。まずは、この分野の研究を理解するのに必要な細胞の分化(※2)について説明しましょう。 人間の脳には1000億個以上のニューロンが存在し、そのニューロン(※3)の活動を支える細胞は1兆個を超えると考えられています。これが体全体となると、想像もつかないほど膨大な数に上ります。しかし、新たな生命が誕生した瞬間、つまり精子と卵子が結び付いた受精卵はたった1個の細胞です。それが分裂し、2個、4個、8個…と増殖していくのです。 分裂といっても、同じ細胞が二つできるわけではありません。脳や内臓、皮膚など、部位ごとの役割に合わせて性質の異なる細胞が生まれます。この現象を「分化」といいます。 こうした分化の過程において、神経発生学では特にニューロンをはじめとした神経系の細胞に注目し、そのメカニズムを遺伝子レベルまで掘り下げて研究します。脳だけではなく、中枢神経系の一部である脊髄、脳や脊髄から全身に伸びる末梢神経系も研究対象となります。 神経系の発生・発達に影響を及ぼす要因には「遺伝子」と「環境」がありますが、私の研究室では遺伝子を中心に研究しています。環境要因を軽んじているわけではありませんが、遺伝子のメカニズムを解明すれば、自ずとどの範囲が環境の影響によるものかを特定できるのです。
神経系の中枢である脳には、未解明の謎が山ほどあります。かつては、脳細胞の数は3歳児が最多で、それ以降は減り続けると考えられていました。ところが、神経発生学の研究により、脳の一部の部位では成人後も細胞が増え続けることが明らかになったのです。ラットの場合、1日で8000~9000個の細胞が増えていますから、当然、人間はそれ以上の新細胞が生まれていると考えられるでしょう。 この仕組みをコンピュータに例えていえば、以前は、3歳の頃にハードウエアが完成し、その後は回路を工夫してプログラムを走らせていると、考えられていました。ところが実際には、ハードウエアは生きている限り進化し続けていることがわかったのです。 脳の中では、こうしたダイナミックな活動が至るところで起こっていると考えられます。その仕組みを解き明かすのが、私が研究している神経発生学の役割です。しかし、その研究はまだ始まったばかり、というのが今日の状況です。