私を育てたあの時代、あの出会い

きくち・りゅうざぶろう

きくち・りゅうざぶろう

1988年より洛南高校勤務。国語科。校内での指導に加え、現在は学生寮の舎監として寮生の生活を見守る。附属小学校設立準備委員。

しらがた・かずのり

しらがた・かずのり

5年間の民間企業勤務を経て、1978年より洛南高校の教壇に立つ。数学科。現在は同校の総合企画部長。附属小学校設立準備委員。

※プロフィールは取材時(08年12月)のものです

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私を育てたあの時代、あの出会い

言葉ではなく、指導する姿からすべてを学んだ

京都府・洛南高校 菊池竜三郎

今を支えるベテランから時代を担う若手への知識と技術の継承は
どのような業種、職種においても軽視できない重要なテーマだ。
だが、教師という仕事においては、
言葉だけでは伝えきれないマインドの継承がとりわけ大切である。
熱き思いを持つ教師があえてその口をつぐみ、
自らの背中で道を指し示したとき、後輩教師は何を感じたのか――。
京都府・洛南高校の菊池竜三郎先生が「無言の教え」を振り返る。

 洛南高校の教師になったのは、大学を卒業した1988年です。そしてそのとき、職員室で隣の席だったのが白潟一則(しらがたかずのり)先生です。白潟先生は民間企業を経て洛南高校の教師になった方で、教職歴は私より10年ほど先輩です。私が配属された高2学年で担任を務めていらっしゃった先生は、教科は異なりますが、新任の私の教育係になってくださったのです。
 ところが、私は白潟先生に、1年間ほとんど話をしてもらえませんでした。用があって話しかけても返事は「ああ」「うん」くらい。私は右も左もわからない状態なのに、「こうするといいよ」といった教育係らしいアドバイスは全くありません。ほかの先生とは気軽に話をし、生徒とも楽しそうに接しているのに、なぜ自分に話をしてくれないのか。次第に私は白潟先生のことを「怖い先生だ」と思うようになりました。一度、先生が入院して学校を休んだときには、正直ほっとしたくらいです。
 これだけ話をしてくれないのは何か意図があるはずだ、とも思いました。しかし、若く、無我夢中だった私には、先輩である白潟先生にそれを質(ただ)す余裕も度胸もありませんでした。ただ、あれこれ教えてもらえない分、先生の言動をしっかりと追いかけて学ぼうと一生懸命でした。
 2年め、私は寮の副舎監の1人として、当時舎監だった白潟先生の下で働くことになりました。先生は私に「部屋を回りなさい」とだけおっしゃいました。私はその言葉の通り、生徒の部屋を回りました。生徒と年齢が近かったこともあって、すぐに兄弟のような感覚でいろいろと語り合うようになりました。進路や勉強の悩みを抱え、眠れない夜を過ごす彼らと話をするうちに、寮という場所では、教師としてではなく、素顔の自分で生徒と付き合うべきだと私は気づきました。
 白潟先生の無言には確かに意味がある。それがわかったのはこのころです。言葉で教えられて学ぶのではなく、先輩方が実際に生徒と接する姿から学び、そして自分も生徒と向き合ってみて自分なりに学んでいくしかない。白潟先生はそれを私に伝えようとしているのだ――。
 3年めからは、白潟先生は私を他校の先生との進路指導の勉強会に頻繁に連れて行ってくれるようになりました。先生は、「初めて会う先生にも正直に話をしなさい」とおっしゃいました。実際、先生は聞かれたことは何でも正直に答えていました。「僕にもそこまで教えてくれていないのに!」と驚くことも何度もありました。けれども、そうすることで相手の先生も白潟先生のことを信じ、深い話をしてくれる。そばで聞く私にとっては、視野を広げるだけでなく、自分の学校での取り組みを考える絶好の機会になりました。

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