どのようにして脳科学から人文科学・社会科学にアプローチするのか、例を挙げてみましょう。まず、倫理学の古典的な思考実験である「トロッコ問題」を素材として、脳が意思決定を行う仕組みを考えてみます。
制御不能のトロッコが分岐点に向かって暴走しています。分岐した先の一方には5人の作業員が、もう一方には1人の作業員がいます。あなたがポイントを切り換えることでトロッコの進む方向を決められるとしたら、どちらを選択するでしょうか。
この場面については、8割以上の人が、1人を犠牲にして5人を救うと答えます。ところが、次の場面では、答えはかなり違ってきます。線路の上に、あなたと太った男が立っている。その下の線路を暴走トロッコが走っており、その先に5人の作業員がいる。太った男を線路に落とせばトロッコを止めることができる。その場合、あなたは太った男を突き落とせるでしょうか。
このケースでは、多くの人が「何もせずに見ている」と答えます。数の論理からすれば、どちらの場合も5人の命を救えるにもかかわらず、太った男を突き落とすことができないのはなぜでしょうか。
これは、人間の倫理観あるいは道徳観を測る命題として、古くから議論されてきたテーマです。人間の行動を支えるのは理性なのか、感情なのか、それとも功利的な判断によるのか。議論を重ねても意見が分かれるだけで、結論に至ることは難しい問題です。
ところが、MRIを使って、回答者の脳の働きを調べたところ、第一の質問のときは功利的判断をつかさどる部位が活性化したのに対し、第二の質問では感情をつかさどる部位が活性化したという実験結果が出ています。
この実験結果は、有史以来、人類が議論してきた命題に一つの光明を与えるものかもしれません。これまで、人間は理性的な判断を行う生き物であり、その点が動物と決定的に違うと考えられてきました。しかし、この結果からは、人間の意思決定や道徳・規範には、意外に非理性的な感情に左右される部分が大きいことがわかったのです。
もう一つ、人の「好み」についても興味深い実験結果があります。一般に、人間は何らかの意思決定をする際、「ある理由に基づいて物事を決める」と考えがちです。しかし、MRIで女性を選ぶ際の男性の脳の働きを調べたところ、まず、人間の運動機能や情動などをつかさどる大脳基底核や大脳辺縁系(※2)が活性化し、それを受けて人間の「意識」をつかさどる大脳新皮質(※3)が活性化し始めるとわかりました。つまり、この種の意思決定に際しては、まず動物と共通する下層の脳が決定を下し、より進化した脳がその理由を後付けで考えている可能性が高いのです。
最新の脳科学を駆使して人間の意識を調べると、これまで考えられていたように、人間が必ずしも理性的に行動しているとは限らないことがわかります。私たちが常識だと思ってきた人間に対する理解は、大きく修正を迫られるかもしれません。 |