私を育てたあの時代、あの出会い

まつたか・ぜんいち

まつたか・ぜんいち

数学科。鹿屋農業高校を経て甲陵高校。教育委員会勤務後、種子島高校、鹿児島中央高校へ。現在、鹿屋高校教頭を務める。

おかざき・ひろや

おかざき・ひろや

国語科。大島高校を経て甲陵高校。高山高校教頭、川辺高校校長、甲陵高校校長を歴任。05年度からラ・サール高校非常勤講師。

※プロフィールは取材時(09年2月)のものです

VIEW21[高校版] 新しい進路指導のパートナー
  PAGE 1/3  次ページ

私を育てたあの時代、あの出会い

最高の学校を目指し生徒と向き合う意志を培った

鹿児島県立鹿屋(かのや)高校教頭 松髙全一

教師の仕事である「人づくり」は、必ずしも望んだペースで
成果が得られるものではない。一見、停滞に思える時間の流れを受け止め、
大きな飛躍を待たなければならないこともある。
そのとき、教師を支えるのは「生徒を信じる」という一念しかない。
生徒を信じ、自らを叱咤しながらつくる「最高の学校」。
常に高みを目指す生き方を学んだ30代の日々を、
鹿児島県立鹿屋高校教頭の松髙先生が語る。

 30歳になった1990年4月、私は鹿児島県立甲陵高校に赴任しました。初めての普通科進学校勤務に、「今後の自分に大きな影響を与えるような、教師としての進路選択のヤマ場となるのでは…」そんな予感と期待を抱いていました。
 3学年の理系クラスの担任となったのですが、普通科の進路指導は右も左もわからない状態。そんな私にとってまさに「師」といえる存在が当時進路指導主任の岡﨑弘也先生でした。
 まず驚いたのが、岡﨑先生の「面談力」でした。インターネットもシラバスもない時代、先生は面談の中で生徒に「やりたいこと、なりたいものに合った大学」を次々と紹介し、そして合格するために何をすべきかをわかりやすく説明しました。だから、面談が終わった生徒は、明らかに表情が変わるんです。こんなすごい面談ができるようになりたい…心からそう思いました。
 3学年の担任団は、しばしば岡﨑先生に「うちのクラスの生徒と話をしてもらえますか」と面談をお願いしていました。担任なのだから、クラスの生徒のことは自分で何とかしたいという気持ちはもちろんありました。でも、生徒のためを考えれば、岡﨑先生の「面談力」を借りた方がいい。いや、それだけではなく、学年団の先生全員の力で生徒を育てればいいじゃないか。そんな雰囲気がありました。
 一方で教師一人ひとりは、生徒のために何ができるかを常に厳しく問われました。進路検討会は、「この生徒はどの大学に合格できるか」ではなく、「生徒の志望をかなえるため、各教科担当はどれくらい成績を伸ばせるのか」を岡﨑先生が確認し、各教師が決意する場でした。「国語で20点、松髙先生の数学で30点アップ…よし、じゃあいけるぞ!」。それはすごいプレッシャーでした。でも、生徒が教師を選ぶことはできない以上、まず頑張らなければならないのは、やはり教師です。「教師が努力すればするほど生徒は変わるよ。そして、その変化を見てしまったらもう教師は辞められない」。岡﨑先生からよく言われた言葉です。

  PAGE 1/3  次ページ