私を育てたあの時代、あの出会い

おかざき・ひろや

たかはし・ひろし

数学科。館林高校に9年間勤務した後、太田高校へ。同校で12年間勤務。そして伊勢崎高校へ転任。5年目を迎える。

よしはら・かずお

よしはら・かずお

太田工業高校、桐生工業高校を経て、太田高校へ。同校で17年間教壇に立ち、1994年退職。その後もさまざまな高校で講師を勤める。

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私を育てたあの時代、あの出会い

鬼と恐れられ神と崇められた師の真髄を受け継ぎたい

群馬県立伊勢崎高校 高橋 博

「感動する授業が目の前で展開された時、
生徒はその教科から決して逃げなくなる。
たとえ、その先の道がどれほど厳しくとも――」。
群馬県立伊勢崎高校の高橋博先生がその「定理」を学んだのは、
教師としての真髄である「授業力」で生徒からの全幅の信頼を我がものとする
偉大な先輩教師からだった。生徒として「鬼教師」に学び、
そして後輩として「数学の神様」に指示したその歩みを振り返る。

 それは私が高校3年生になって初めての数学の授業でした。群馬県立太田高校の生徒だった私の前に、吉原一夫先生は竹刀を携えて現れたのです。前任の工業高校では厳しい指導で「鬼」とあだ名されていたことも知っていましたから、教室の全員が「これはとんでもない先生に教わることになった!」と緊張に身を硬くしたはずです。
 授業中の先生はとにかく口が悪く、「こんな問題も分かんねえのか!」と生徒を叱咤(しった)しました。でも、生徒はやる気にあふれていました。先生の授業が面白かったからです。先生は「教科書とは違うけど、おれならこうやって解く」とさまざまな解法を見せてくれました。私たちはそれを「吉原式」とたたえ、「参考書にまとめましょう」と真顔で先生に提案しました。「吉原先生に数学を習って分からないのなら自分が悪い」と生徒が口にするほど、皆が先生に心酔していました。物理学を志していた私が数学の教師を目指すようになったのも、先生の影響であることは間違いありません。
 教師になって10年目。32歳の時に、私は母校へ赴任しました。吉原先生は既に赴任17年目を迎えており、その頃は「吉原大明神」と生徒に呼ばれていました。鬼から神様に格上げです。全校集会では校長から「高橋先生は吉原先生の教え子です。立派に成長して母校に帰ってきました」と紹介され、照れ臭く感じたことを覚えています。
 当時の太田高校は、数学科を中心に進学校として更に成長しており、「自分は通用するのか?」と不安もありました。質問に答えられなければ、生徒は自分から離れていくだろう。緊張感を持っての着任でした。そんな私を先生は「高橋が参加してくれてうれしいよ。期待しているからな」と迎えてくれました。「参加」という言葉に、集団の力で生徒を育てるという先生の意志を感じました。実際、数学科は吉原先生を中心に意思統一が図られ、私も先生から1つでも学び取ろう思いました。

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