ベネッセ教育総合研究所 進研ニュース
2002.04
特集「学力」を考えるシリーズ 1
「学力」とは何か?

学校知をどれだけ身につけるかよりも
主語があり、声が聞こえる学びを。

埼玉大学教育学部助教授
岩川直樹さん
(いわかわ なおき)
一九六〇年静岡県生まれ。大学で心理学、大学院で教育学を専攻。専門は、教育方法論。フィールドワークを通して、教師同士が語り合える学校づくりを探っている。おもな著書は『「学力」を問う』(編著・草土文化)、『総合学習を学びの広場に』(大月書店)、『総合学習への発想』(共著・草土文化)ほか。

「学力低下論」が起こす問題

 テーマから少し離れるかもしれませんが、まず、マスコミがこぞって展開している「低学力キャンペーン」があまりにも気になるので、その問題点を述べてみます。
 一つは、学力低下が叫ばれるあまり、学びの質、豊かさへの問いが封殺されてしまうのではないかということです。
 二つ目は、「低学力が国を滅ぼす」といった声のなかから、現場の先生の肉声が感じ取れないことです。また、子どもたちの声も聞こえてこない。
 三つ目は、今、ようやく教師たちの手で、あるいは、地域の人たちと協同するかたちで、学校という場をつくり直していこうとする動きが始まったのですが、それがなし崩しにされる恐れがあると思うのです。具体的には、「総合的な学習の時間」(以下、総合的学習)に向けて学校づくりをしてきたのに、「梯子を外されて引き戻されるようだ」と感じる教師が増えていることです。

どんな関係のなかで学んだか

 「学力」を数値化して測ることの意味はあると思いますが、そこだけをズームアップして、ほかのことが見えなくなる状況は貧しいと思います。今、問われなければならないのは、「学びの質」ではないでしょうか。
 学びは、人と人との関係のなかで育まれます。また、学んだものは、人との新たな関係を豊かにするために用いられてこそ意味があると思うのです。
 もし学んだ結果に問題があるなら、教える側と学ぶ側のミスマッチなど、関係の貧しさに由来するはずですが、「低学力問題」は一方的に学ぶ側の問題としている点にも問題があります。

つながるための学びを

 学びを豊かにする一つの手がかりとして、「主語がある学び」を提起したいと思います。
 例えば、「総合的学習」が入ってきてから、手話や点字を学ぶ学校が増えてきました。ある小五の女の子が、福祉活動で目の不自由なお年寄りと知り合います。その方がとてもいい笑顔をしているので、なぜそんなに素敵な笑顔ができるのかと不思議に思って手紙を書くと、点字で書かれた返事が届くのです。そこで、ぜひ自分で読みたいと点字を学んでいきます。読んでみると、「…いたみや感謝をいっぱい知っている人が、幸せを呼び込むんだと思いますよ」と書かれている。それに返事を書きますが、今度は点字で書いていく。こうした体験を発表した彼女に、友だちは「点字を打つのは大変だったでしょう」と問いますが、「大変なところもあるけれど、打っているときは楽しかった」と答えています。また、手話を覚えた別の子は、「私も前は、手話をどんどん覚えていくこと自体が楽しかった。でも今は、手話を使って○○さんと話をするのが楽しい」と語りました。そのことからも、子どもたちは、学びの豊かさ、質をちゃんと感じ分けているのだとわかります。つまり、点字や手話というスキルを学ぶこと自体が楽しいというより、それを用いて人とつながることを喜びと感じているのです。

「力」を超える学びを

 今、あまりにも「○○力」ということが言われすぎているような気がしています。テレビのCMにも使われるくらい、「人間関係力」「対話力」…と新語・造語が氾濫しています。「力」は個人のもので、しかも競い合って増やそうとするもの。人を押しのけなければ生き抜いていけない、今の世知辛い社会状況を象徴するような言葉です。
 私は「力」を超えたところに学びの意味を求めたいのです。例えばクラスのなかで、あまり発言しなかった子が、あるとき何かのきっかけで発言できたとします。それを「力」の視点だけでみると、「表現力が1から2になった」に過ぎません。しかし、その子が発言したことで、「すごいな」と思う子がいる。「自分も勇気を出して発言してみたい」と思う子が出てくる。そうしたことを通じて学級が活気づく。そのような意味は、数値化できません。しかし、数値化できないものをとらえていく発想がなければ、これからも失われる「力」はあるだろうし、数限りない「力」を鍛えるプログラムが出てくるだけでしょう。

子どもの学びの物語を語ろう

 数値化できないものは、「物語る」ことができます。クラスの三十人の子について、三十通りの「学びの物語」を生き生きと語る先生方に出会うことがあります。そもそも、日本の教師文化には、子ども一人ひとりについて、喜んだり悩んだりする泥臭い文化があったのです。そのような先生方のまなざしをこれからもつないでいきたいと思うのです。
 学びの風景を振り返ったときに、そのときの具体的な場面や一緒にいた人の顔が思い浮かぶような学びが、いい学びだと思うのです。「総合的学習」は、一人ひとりの存在がくっきりしてくる学び方ができる可能性があります。「総合的学習」をさまざまな価値観が交わり、公共性を育てていく学びの広場にしてほしいと願っています。
 確かに、「学習離れ」は進行していると思いますが、子どもたちは学びたくないわけではないのです。ましてや、中学生・高校生が成熟の糧を求めていないはずはありません。手話や点字を学んで、人と深くつながる意味が見えた子どもたちのように、学びの意味が見えてくれば、子どもたちはきっと学び始めると思います。 (談)


© Benesse Holdings, Inc. 2014 All rights reserved.