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学習意欲を持たせる4つの動機づけ
人生というものはそういう面が非常に強い。好きなことをして、楽しく、おもしろおかしく過ごす人生もあるかもしれないけれども、それでは、空虚で空疎な一生になってしまう。結局、好きであろうと嫌いであろうと、やりがいが感じられようと感じられまいと、自分に与えられた仕事を(クリスチャンはこれを神から与えられた使命、ミッションであるという)逃げるわけにいかない。
この気持ちを小学校の上級生から少しずつ上手に取り入れること、これが4番目なんです。これをあんまり言うと、生きているのがしんどくなりますから、少しずつです。
もっとも、このことは、日本では昔から言われてきたことです。残念なことに、戦後の教育のふわふわした、母性原理だけの教育観のなかで、「自分がやらねばならないことは逃げないでともかくやろう」という気概を持つということを無視してきた。
江戸時代の享保年間に書かれた書物に、『葉隠』があります。戦国時代を生き抜いた肥前(佐賀藩)の山本常朝という藩士に、若い侍たちが武士としての心得を聞きに行く。その談話を集めたのが『葉隠』です。文庫(注:岩波文庫全3巻)に入っていますから、教育に関係した人にはぜひ読んでほしいと思います。
そのなかで常朝は、例えばこんなことをいっています。「死ぬ道と生きる道が自分の前にあったら、迷わず死ぬ道を行け」と。これは死ねということではないのです。死ぬかもしれないようなリスクのある道、苦労の多い道、これを次々に選べということです。逆に、楽でリスクもないような道を生きたら、人間は内側に本当に燃えるものがなくなってしまう。それを若い人にわかりやすく言うと、やっぱりこれも『葉隠』に書いてありますが、「恋の至純なるものは忍恋(しのぶこい)」だ」というんです。いちばん純粋な恋は、片思いというか、なんというかわかりませんけれども。私はこれも日本的な美学だなあと思いますよ。
さらに、江戸時代初期の儒学者・熊沢蕃山はこんなふうに言っています。
「憂きことのなほこの上に積もれかし 限りある身の力ためさむ」と。もっともっと私の上に嫌なことが降りかかってこい。自分は限界のある身だけれども、その限界を試してみようじゃないかっていうのです。
こんなことを言えるときは、身震いするぐらい張り切っている。「何かいいことないかなあ」と思うときは、全部がもうだらけている。「憂きことのなほこの上に積もれかし」というような気概を持って生きるということを、学習活動を通じて、子どもたちにも、少しずつわからせたいなと思いますね。
ただしこれは案配が難しい。弱い子にあんまりこれを言うとダメです。これは強い子に言わなければならないこと。それから発達段階を見ながら、うまくバランスとる。
まず、「面白い」学習活動をやる、「大事だぞーっ」と学習活動をやる、「やりがいあるだろう」「これで自信持てるだろう」という学習活動をやる。そういうこととうまくリンクさせながら、「逃げちゃいけない、正面から立ち向かって行け」と。その立ち向かうこと自体が意味がある。これもやっぱり教えていかないといけないでしょうね。
こういうことを私が申し上げたのは、これまで、「関心・意欲・態度」を薄っぺらなその場限りの「面白ければいいだろう」と受け止めてきたことがあったから。例えば「楽しい数学」「楽しい体育」というように、楽しいだけでぜんぜん力がつかないものがあった。これは反教育的であり、非教育的であり、同時に時間の無駄でした。ということで、今言った4つの動機づけの仕方を念頭に置いたことを考えてもらいたいのです。
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