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「我々の世界」を生きる力と「我の世界」を生きる力を育てよ
3番目に、いま言ったことを全部踏まえて、「教育とはなんだったのか」という教育の本質論をせねばならない。
「子どもの目がきらきらしていたからバンザイ」とか、「子どもが生き生きしていたからバンザイ」というような非常に薄っぺらな子どもの見方が、なぜ繰り返し繰り返し流行るのか? それは、子どもが育つということの、あるいは教育の本質が見えなくなっているからだろうと思うんです。
子どもには2つの力を育てなくてはならないのです。私の言葉で言うと「我々の世界」を生きる力と、「我の世界」を生きる力です。
「我々の世界」を生きる力というのは、世の中できちっと仕事がやれる、あるいはきちっと世の中で生きていけるということです。具体的に言うと、家族のなかで役割を果たし、組織のなかで仕事をし、そして社会のなかで一人の市民として生きていく。そのための力を学校にいる間につけていかなきゃいけない。これは一生の課題ですが、その根幹の部分は学校で身につけていかねばならないと思います。
しかし人間は、親になるとか、社会でリーダーになるといったことは、みんな一つのエピソードです。結局、人は一人で生まれて一人で死んでいく。昔は「人生50年」と言われ、いまは80年、90年にも延びましたけれど、それでも、人はあっという間を生きていきます。
大事なのは、自分が存在しているという意識があるかどうかです。自分はこういうことにわくわくするとか、こういうことは悲しいとか、自分自身のあり方みたいなものがわかり、死ぬ間際まで、「生まれてきて良かったな、生きていくのは楽しいなあ」と思って生きていきたい。それは自分の与えられた命を大事に大事に生きていくことです。
もっと言うと、自分を肩書き抜きでは語れない人たちは気の毒です。それは、「我々の世界」には住んでいるけれども、「我の世界」ができてないから。そういう人たちは定年になったら、空虚になっちゃう。
定年が近づいてから、「肩書きを抜いた『私』を考える」のはほぼ無理だから、小さいときから考えていかなきゃいけない。これについても、根幹にあたる部分、土台になる部分は学校教育のなかで気づかせなきゃいけないと思います。
「我の世界」を生きるためにも、読書は大事でしょう。
昔はよく、小学校の上級から、いまでいうと中学、高校に当たる思春期から青年期に、友だちと人生の話をするようになったといわれます。学校の勉強のことではなく、進路のことでもなく、例えば生きていくなかでの悩み、将来への希望を話し合ったといわれます。しかし、いまの子どもたちがそれをあまりしなくなったといわれるのは、読書をしなくなってきたということとも関係がありますが、その背景には、子どもたちが長い人生を考えないで、次はどこの学校に行って、その学校を終わったらどこの企業に入る、ぐらいの展望しか持たなくなり、極めて薄っぺらな考えしか持たなくなってきたためではないかと思います。
「我の世界」を育てるのも、よき教育者でしかできないと思っております。
例えば、江戸時代は儒教が中心でしたから、まさにこの「我の世界」の生き方を教えました。自分は損しても「仁義礼智信」を大事にせよと教えました。だから、こういう教育を受けた人々には、「我々の世界」を生きる力と「我の世界」を生きる力両方が育った。
しかし明治以降、卒業式に歌われた『仰げば尊し』に出てくるような、「身を立て 名を挙げ やよ励めよ」っていう、世の中で偉くなることが教育の目標のような暗黙の発想が日本の学校教育の中に深く深く忍び込んでしまった。そのため、「自分の人生を、自分のいわば原理・原則を大事にしながら自分の責任で生きていく」ということを教えることが薄れてしまった。
しかしそのなかでも、各地に輩出した信念を持った教育者はみんな、一人ひとりの内面に原理・原則を持たせる人間づくりをやってきたと思うんです。だから、これからも、「我々の世界」を生きる力と「我の世界」を生きる力の両方が大事なんだと教えなくてはならない。
ただし、両方の関係は並列じゃない。「我の世界」を生きる力がいわば根幹なんです。けれども、これだけだったら「使い物にならない」から、世の中で生きていくための武器、「我々の世界」を生きる力を身につけなければならないわけです。「我の世界」を生きる力ができ、その人間が非常に有効で適切な武器、知識・技能、社会的な資格、あるいは人とのつき合い方、あるいは市民としての自覚を身につけていくべきなのです。
「我の世界」を生きる力ができないままに、知識・技能という武器ばかりを手にすると、オウム真理教の若者みたいになってしまう。オウム真理教の若者に決定的に欠けていたのは、「自分の人生を自分の責任で生きていく」ということです。だから、自分たちが身につけた知識を、結局、反社会的なものに使った。
なお、「身を立て名を挙げ」しか考えないようでは、70歳になったら勲章をもらうとか、運転手付きの黒塗りの車に乗るということしか人生の目標を立てられない。
でも、「ぼろは着てても心は錦」という心を持った人がすばらしい知識・技能を持てば、こんなに強いものはない。
学校教育も本来は、そのような教育の理想・夢を追求する場であるはずなんです。そのような場にするためには、もう一度教育関係者が夢を持たなきゃいけない。夢を持たないで、行政から次から次へと下りてくる新しいスローガンに右往左往するのは、教育者でもなんでもない。
こういう転変の激しい時代だからこそ、教育にかかわる者は、行政の方向がどう変わろうと、あるいはマスコミの報道の仕方が変わろうと、あるいは教育学者の言うことが変わろうと、まったく変わらない骨太のヴィジョンを自分の内側につくっていかなければ、疲れ果てて終わってしまうと思います。
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