指導変革の軌跡 岐阜県・私立高山西高校「進学実績向上」
VIEW21[高校版] 新しい進路指導のパートナー
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徹底した生徒指導で生徒気質を立て直す

 高山西高校が設立されたのは、第一次ベビーブーマーの入学を控えた1963年のこと。学区唯一の私立高校として、地域の期待を一身に背負っての開学だった。ところが、開学して10年ほど経った頃から生徒の問題行動が目立ち始め、進学実績は低迷する。そして、小林教頭が赴任した80年代後半には「生徒はもちろん、多くの教師にやる気がない」という最悪の状態に陥っていた。
  そんなどん底状態から脱出すべく、改革の狼煙を上げたのは、89年に赴任した谷口耕平校長だった。沈滞ムードが漂う高山西高校に赴任するや、その日のうちに「普通科私立高校が生き残る道は進学実績を上げるしかない」とぶち上げたのである。突然の出来事に「絵空事にすぎない」と冷ややかに見る教師も多かったが、当時の小林教頭をはじめとする若手教師は奮起した。
  「飛騨地区はそれほど大きな後背人口を持つ地域ではありません。一度『受け皿校』のポジションが固定化してしまうと、学校の存続そのものが脅かされます。早いうちに手を打たなければ大変なことになる、と思いました」
  こうした問題意識は、さっそく校長直属の改革諮問会議=「若者会」という形で具現化された。メンバーのほとんどは20代。暇を見つけては、改革のグランドプランを語り合った。だが、小林教頭たちは、単に空理空論を語り合っていたわけでない。高山西高校の若者会には、改革案の提案のみならず、その「実行」までがミッションとして課されていたからだ。この責任感が若手教師たちを奮起させた。
  「ただ議論するだけでなく、実践し、成果を上げることまでが我々の仕事でした。先進校の視察や、授業法の改良、学習合宿の実施、更にはカリキュラムの見直しまで――。改革元年はそれこそできることは何でもやるつもりで取り組みました」(小林教頭)
  中でも、小林教頭たちが最も力を入れたのは、生徒指導であった。視察した先進校は、どの学校も生徒指導が徹底され、生徒の生活態度がきちんとしていた。いくら授業の質を上げても、生徒の側にそれを受け入れる態勢がなくては学力向上はおぼつかないからだ。そこで、ほとんど放置状態だった生徒の生活を正すべく、毎朝の校門指導や服装指導、更には登校中の自転車の乗り方指導までがスタートした。
  「もちろん、最初は生徒たちから反発を受けましたよ。『今までと違うじゃないか』と。そこで、教師が言うだけでは効果は薄いと考え、できる限り保護者の協力を仰ぐことにしました。生徒が些細な問題行動をするだけでも保護者に学校に来ていただき、家族も交えて生徒の生活態度を改めるよう説得したのです」(小林教頭)
  こうした荒療治は次第に効果を発揮した。改革がスタートして数年経った頃には、学校も落ち着きを取り戻していた。


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