――授業改革に踏み込む必要性を、高大双方が感じていたわけですね。では、実際の取り組みはどのように進められたのでしょうか?
小路口 英・数・国の3教科について、大学側1名、高校側数名で、教科ごとに定期的に研究会を開くことからスタートしました。まずはじめに確認したのは大学側が求める学力と、高校側で育成を目指している学力観のギャップです。
杉原 大学が欲しい学生とは、端的に言えば、「多少荒削りでも、自分なりの物の見方や考え方ができる学生」です。しかし、そうした思いは必ずしも十分高校現場に伝わっていません。実際、多くの高校では知識習得型の授業が主流となっているように感じます。まずはその認識のギャップを互いにすり合わせる必要があるわけです。
――しかし、内容が内容だけに、議論をしても抽象的な話ばかりになってしまいませんでしたか?
小路口 そうですね。確かに、それまでにも何度か大学の先生とお話をする機会があったのですが、「コミュニケーション能力」や「課題解決能力」といった言葉は出てきても、「じゃあ、実際にどういう授業をすればよいのか」というレベルにはなかなか話が進まない面がありました。
杉原 そこでこの連携事業では、高校側が作成した授業展開案を見て、高大の教員が互いに問題点を話し合う形を取ったんです。議論の題材を具体的に設定することで、「大学が求める力」について、より突っ込んだ議論をしたわけです。また、公開授業・研究授業などもかなりの回数実施されました。
小路口 印象に残っているのは、「和歌のできない侍を貴族たちが笑いものにする」という『今物語』の説話を題材に、指導案を考えたときのことですね。最初の指導案は、一通りの現代語訳をした後に形式的に生徒に感想を書かせるものでした。その教案を見た大学教官が、「この作品の呼びかけに、現在の生徒が共感したり違和感を持ったりするはずだ。その呼びかけの属する『問題圏』をどう現代から照射するのかが教材の価値になるのではないか。このままでは、生徒の感想も『当時の侍って教養がなかったんだ』くらいしか想定できず、深まりはしないだろう」とアドバイスを下さいました。そこで、説話成立の背景や現代的意義について考える仕掛けを授業に採り入れたところ、「『和歌』(教養)と身分が社会的価値観となっていた当時の状況と、学歴が社会的価値観として一元化されている現在の状況は似ている」なんて感想を書く子が出てきたんです。「ああ。古典を一つの物語として相対化して自らに引き付けている。『考える授業』とはこういうことか」と、納得できました。
杉原 「書く」という行為は「考える」ことに他ならないわけですが、今の高校生は「身辺雑記」以上のものをなかなか書けませんよね。社会との関わり、周辺の世界との関係といった視点を少しずつ授業に採り入れることで、思考に広がりや深みを持つ生徒を育ててほしいんです。そういう学生を大学としては欲しいですよね。
小路口 深い読みができるようになった生徒は、知識習得型の学習にも一生懸命取り組むようになります。私たちの学校でデータを取ったところ、広島大との連携を開始してから、「予習をすべてしている」という生徒は3倍増。「試験後に復習をしない」生徒は半減。「国語の予習を一切しない」生徒は全体の4%にまで減りました。(※)
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