特集 高校教育の「不易と流行」
永井順國

▲女子美術大

芸術学部教授

永井順國

ながい・よりくに

1941年広島県生まれ。早稲田大教育学部を卒業後、読売新聞社に入社。社会部(教育や司法の企画連載を担当)や論説委員を担当し、98年に女子美術大教職課程教授に就き、現在に至る。文部科学省政策評価に関する有識者会議委員や、中央教育審議会臨時委員などを歴任。『学校をつくり変える―「崩壊」を超える教育改革』(小学館)、『学校改革のリーダーを創る~新時代の教育改革1~』(共編著・明治図書出版)など著書多数。

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【インタビュー2】

高校教育と大学入試の歴史と展望

自立した高校教育を目指して

女子美術大

芸術学部教授

永井順國

NAGAI YORIKUNI

『VIEW21』(当時は『進研ニュース』)が創刊された

1974年から現在までの三十余年の高校教育と、

高校教育に大きな影響を与えた大学入試の歩み、そして今後の展望を、

長らく教育ジャーナリストとして活躍し、中央教育審議会臨時委員などを

歴任した女子美術大の永井順國教授にうかがった。

1970年代から80年代前半

(高校教育) 教育爆発(高校教育の大衆化・多様化)

(大学入試) 共通一次試験の導入

 明治時代初期、近代化を目指していた日本では、まず、高等教育機関(大学)と初等教育機関(小学校)の充実が図られました。初めに大学と小学校をつくり、それをつなぐ教育機関として中等教育(中学校および高校)をあとから制度化した経緯があります。後に中学校は小学校と共に義務教育化されますが、義務教育と高等教育の狭間に置かれたことで、高校教育は現在もその位置付けが曖昧になったままです。そして、大学入試の変化は、高校教育に非常に大きな影響を与えてきました。70年代後半以降の絶え間のない高校教育改革は、そうした中で高校の役割を再定義するために続けられてきたものといえるでしょう。

 この時代の高校教育は、「教育爆発」という言葉で表せます。高校教育の大衆化が進み、74年には高校進学率が90%を突破、大学受験も過熱して社会問題になりました。生徒増により学力や興味・関心の開きも顕著になり、受け皿である高校は必然的に多様化していきます。73年、82年実施の学習指導要領でも、必修科目を減らして選択科目を増やしたのも多様化の文脈の中で行われました。

 国公立大入試に目を向けると、当時は大学ごとに独自に問題を作成していたため、学習指導要領を大きく逸脱する難問や奇問も目立ち、高校現場から不満の声が上がっていました。また、知識の量を競わせる側面が強かったことも否めません。

 その状況に風穴を開けたのが79年に導入された共通第一次学力試験(以下、共通一次試験)でした。その理念は学習指導要領に沿って、基礎的かつ一般的な学習到達度を測るというものであり、更に各大学で実施する第二次試験で学部に応じた能力を見るという趣旨で始まりました。

 共通一次試験の導入前後は、新たな制度への期待もあってジャーナリズムの論調は押しなべて好意的でした。高校現場でも試験の内容が学習指導要領に準拠しているために、標準的な授業をしやすくなったことから、共通一次試験は前向きに受け止められていました。

 しかし、完璧な試験制度というものは存在しません。共通一次試験も例外ではなく、例えば、かつての一期校と二期校が一本化され、それまでの小樽商科大や滋賀大のような二期校ならではのユニークな校風は希薄化してしまいました。一方、生徒にとっては受験機会が2回から1回に減ったことが不満の種になりました。そして、導入から数年後には後述するようにいくつかの問題が表面化し、制度自体の見直しを求める声が上がるようになります。

高校教育・大学入試の歴史
●学校の創成期
1871(明治4)年 文部省設置
1872(明治5)年 学制(教育法令)公布
1877(明治10)年 東京大創設(法・医・理・文の4学部)
1879(明治12)年 教育令公布(学制を廃止)
1886(明治19)年 小学校令・中学校令・諸学校通則公布により学校制度が確立
   

小学校は尋常小学校、高等小学校の二段階

    中学校は尋常中学校、高等中学校の二段階
  帝国大学令公布
   

東京大学を東京帝国大学とし、以後、北海道、東北、名古屋、京都、大阪、九州の帝大を設置

1894(明治27)年 高等学校令公布
    高等中学校を高等学校と改称
●高等学校、および大学入試制度の動き(1970年代以降)
1969(昭和44)年 大学・短大進学率が20%突破
1972(昭和47)年 共通一次試験の基本構想を発表
  高校の教育課程変更
1973(昭和48)年  

必修教科科目の単位数を68(女子・70)→47に削減。外国語を必修から除外し、数学や理科の必修単位数も削減

  大学・短大進学率が30%を突破
1974(昭和49)年 高校進学率が90%突破
1977(昭和52)年 大学入試センターの設置

共通一次試行テストの実施

1979(昭和54)年 共通一次試験の実施(1979年度入試)
   

5教科7科目・1000点満点で、マークシート方式を導入

    大学教員が作問を担当
1982(昭和57)年 高校の教育課程変更
    必修教科科目の単位数を47→32に削減。現代社会、および理科Iが必修化
1984(昭和59)年 臨時教育審議会の設置(1987年まで)
    教育改革の基本理念を提言【(1)個性重視 (2)生涯学習体系への移行 (3)国際化、情報化など時代の変化への対応】
1987(昭和62)年 国公立大入試の大変革(1987年度入試)
   

共通一次試験が5教科5科目・800点満点に変更(社会および理科が各2科目から各1科目に変更)

    4教科4科目以下の「アラカルト入試」が可能に
    各大学がA、Bそれぞれの日程に分かれて二次試験を実施する「連続方式」(AB日程)が導入され、受験機会が複数化された
    共通一次試験の前に二次試験に出願する「事前出願」に変更
1988(昭和63)年 国公立大入試の変革(1988年度入試)
   

事前出願制度による混乱が生じたため事後出願制度に戻す

   

同一日程の2大学・学部への出願が禁止

    連続方式を導入する大学が増加
1989(昭和64・平成元)年 国公立大入試の変革(1989年度入試)
    「分離分割方式」を導入。「連続方式」と併用する大学も登場
1990(平成2)年 共通一次試験が大学入試センター試験に(1990年度入試)
   

私立大の利用を認める。初年度は16大学19学部が利用

    国公立大は教科や科目を自由に選択できるように
1992(平成4)年 大学・短大志願者数がピーク
    第二次ベビーブーム世代の受験により、1992年度入試の志願者数が121.5万人に達した
1993(平成5)年 高校で総合学科を新設

全日制高校で単位制高校を設置

大学・短大進学率が40%を突破

1994(平成6)年 高校の教育課程変更
   

男子の家庭科が必修科目になる

    社会が地理歴史と公民に分化
1995(平成7)年 公立高校の第2・4土曜日が休みに
1997(平成9)年 国立大の入試が分離分割方式に統一
1999(平成11)年
公立6年制中等学校(中高一貫校)の設置

一部の国公立大でAO入試を導入

2002(平成14)年 公立高校で完全学校週5日制がスタート
2003(平成15)年 高校の教育課程変更
    総合的な学習の時間の導入、および情報科を新設
2005(平成17)年 大規模な大学入試改革
   

後期日程を廃止する方向に

    推薦やAO入試の拡充
2007(平成19)年 大学全入時代(予測)

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