明治時代初期、近代化を目指していた日本では、まず、高等教育機関(大学)と初等教育機関(小学校)の充実が図られました。初めに大学と小学校をつくり、それをつなぐ教育機関として中等教育(中学校および高校)をあとから制度化した経緯があります。後に中学校は小学校と共に義務教育化されますが、義務教育と高等教育の狭間に置かれたことで、高校教育は現在もその位置付けが曖昧になったままです。そして、大学入試の変化は、高校教育に非常に大きな影響を与えてきました。70年代後半以降の絶え間のない高校教育改革は、そうした中で高校の役割を再定義するために続けられてきたものといえるでしょう。
この時代の高校教育は、「教育爆発」という言葉で表せます。高校教育の大衆化が進み、74年には高校進学率が90%を突破、大学受験も過熱して社会問題になりました。生徒増により学力や興味・関心の開きも顕著になり、受け皿である高校は必然的に多様化していきます。73年、82年実施の学習指導要領でも、必修科目を減らして選択科目を増やしたのも多様化の文脈の中で行われました。
国公立大入試に目を向けると、当時は大学ごとに独自に問題を作成していたため、学習指導要領を大きく逸脱する難問や奇問も目立ち、高校現場から不満の声が上がっていました。また、知識の量を競わせる側面が強かったことも否めません。
その状況に風穴を開けたのが79年に導入された共通第一次学力試験(以下、共通一次試験)でした。その理念は学習指導要領に沿って、基礎的かつ一般的な学習到達度を測るというものであり、更に各大学で実施する第二次試験で学部に応じた能力を見るという趣旨で始まりました。
共通一次試験の導入前後は、新たな制度への期待もあってジャーナリズムの論調は押しなべて好意的でした。高校現場でも試験の内容が学習指導要領に準拠しているために、標準的な授業をしやすくなったことから、共通一次試験は前向きに受け止められていました。
しかし、完璧な試験制度というものは存在しません。共通一次試験も例外ではなく、例えば、かつての一期校と二期校が一本化され、それまでの小樽商科大や滋賀大のような二期校ならではのユニークな校風は希薄化してしまいました。一方、生徒にとっては受験機会が2回から1回に減ったことが不満の種になりました。そして、導入から数年後には後述するようにいくつかの問題が表面化し、制度自体の見直しを求める声が上がるようになります。
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