1950年、岡山県で総合選抜制度が導入され、岡山学区内で岡山朝日高校と岡山操山高校との合同選抜が始まった。学力上位層の生徒はこの2校に分散し、毎年、東京大・京都大に各10名以上が合格。好調な進学実績は3校総合選抜となってからも続いた。
そんな岡山朝日高校の進学実績に変化が見え始めたのは、30年ほど前のこと。74年、4校での総合選抜となってから、それまでよりも学力面で多様な生徒が入学してきたことなどもあり、徐々に進学実績が低迷していった。
80年に5校選抜になってから、この傾向は強まった。東京大、京都大の合格者数が1桁台の年や、90年代初めには東京大の現役合格者ゼロという年があり、卒業生や保護者から苦言を呈されたことも一再ではなく、進学面では不満の残る状況だった。
県内外の国立・私立の高校が進学実績を伸ばしていった背景には、総合選抜制度により、公立高校がある一面で活力を失ったことにも原因があったようだ。岡山県高等学校長協会会長も務める柴岡元(はじめ)校長は次のように振り返る。
「岡山操山高校との2校選抜時代は学校独自のカラーを保てました。しかし、総合選抜校が3校、4校と増えたことで、カリキュラムやクラス構成を工夫しても、それが独自色となって生徒の志望を集めることにはつながりにくくなり、次第に本校の独自色が薄れていったように思います。他校との比較の中で学校が評価されるわけですから、あの高校に勝った、負けたといった総合選抜の枠内での実績に気を取られるようになってしまった面もありました」
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