国際政治記者のキャリアを生かして執筆した「13歳からの地政学」は、読者に国際情勢を読み解く観点を理解してほしいということに加えて、他国の動きは決して他人事ではないことを少しでも知ってほしいという願いも込めています。今回は、地政学を学ぶことで身につく力や、そうした力の育成に際して学校教育に期待したいことをお話しします。
若者の海外離れを嘆くよりも、世界に目を向けるきっかけをつくる
地政学は、地理と政治に軸足を置きながら、相手の立場に立ってものを考える学問です(前編参照)。普段の生活範囲から一歩踏み出した場所に思考を巡らせ、様々な相手のことを学ぶことで、自分の立場を客観的に見ることができるようになります。そうしたものの見方・考え方は、無駄な争いを避け、人間同士が分かり合える力にもなります。それは、これまでも世界中を回り、現在もウクライナでの戦争を取材している私の確かな実感です。
さて、「日本の若者は海外への興味・関心が低い」などと言われますが、原因は若者にあるのでしょうか。まず、本当は海外に行きたいが、経済状況が厳しいので行けないといった若者は多いと思います。また、日本は人口が多く、内需が高いため、人々は国内に就職先があり、国内で生活することができます。反対に、人口が少なく、内需が乏しい小国は、人々は働き口を求めて周辺国に出向いたり、英語などの第二言語を話せるようになったりするのは当然だといった価値観を持っています。海外に対して若者の興味・関心が低いことは、国内で一定水準の暮らしが保たれている証拠でもあり、一概に悪いことではありませんし、若者が原因というわけでもないでしょう。
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とは言え、世界のことを真剣に考える機会が日常的に少ないとすれば問題です。人は比較することによって、ものの価値が分かります。「特に不満もないから今のままでよい」と考えるのと、海外のよさや暮らしと比較対照した上で、日本がよい、日本での今の暮らしがよいと考えるのとでは、日本のよさや暮らし、その尊さに対する認識の深さは大きく異なります。ですから、可能であればぜひ子どもたちには、実際に海外を訪れてほしいと思っています。
現地で見聞きする手間を省き、書籍やインターネットから情報を入手することは一見、効率的に思えますが、現場主義的な行動の方が、最終的には様々な情報が手に入り、効率的といったことは往々にしてあります。例えば、私が現在住んでいるウィーンでは、急にマンション全体のボイラーが壊れてお湯が全然出なくなり、修理がされずに何日間か過ぎてしまったということがありました。メンテナンスが行き届いている日本にいるだけでは、なかなかそういった暮らしのイメージは想像することはできないしょう。だからこそ海外の暮らしも、ぜひ現地で体感してほしいと私は思っています。
自分の興味を狭めずに、現場に出よう
本記事の読者の皆さんの中には、進路選択を控えている子どもが身近にいる方もいらっしゃるかと思います。特に、高校生になって文理選択を済ませたら最後、受験や進学先に関係ない教科・科目には興味を持たないまま社会に出てしまうことが少なくないと聞きます。これからの時代、専門性は持ちつつも、様々な分野に興味を持ち続けることが大切です。日本の大学の多くは学部という形で専門性が分かれていますが、世の中は学部や文理の区別なしに動いています。「自分は専門外だから」と言っていても、今、起きている事態は解決に向けて動きません。例えば、地理学科や国際政治学科などの地政学に関連する分野に強い興味があるものの、「他の分野は関心がないからいいや」と言うような子どもには、他の分野にも興味を持つよう、本や映画を紹介するなどして働きかけてください。幅広い分野への興味・関心は将来、異なる立場の人との対話においても必ず役立ちますから、児童・生徒の人間性を高め、ものの見方・考え方全体をより大きなものにしてくれます。
地政学を学ぶと身につく資質・能力は数多くありますが、特筆すべきなのは、「状況を分析し、関係する要因を踏まえて戦略的に判断する」力だと思います。それはあらゆる職業や場面で応用可能な力です。どのように振る舞えば皆にとってプラスなのかを分析し、その結果に基づいて計画や戦略を立てたり、行動したりすると、周囲にとっても、本人にとってもメリットが生まれます。
教師や保護者が時に生徒から学び、世代の分断を埋めていけば、社会をつなぐ力になる
今はもう、学校の教師が何でも知っていて、その知識を児童・生徒に「教える」時代ではありません。教師が子どもと一緒に考える姿勢を見せることが大切です。「13歳からの地政学」に登場する「カイゾク」は、年齢を重ねた高齢者の設定ですが、作中で最年少の13歳の少女を1回も呼び捨てにせずに「さん」づけして呼んでいます。それは、私自身、1人の人間として互いに相手の話を聞き、自分も意見をきちんと言うことが大事だと考えているからです。私が記者として様々な分野で活躍する方と話をする中で、特に素敵だと感じる人は、年齢差を気にせずに人と接する人です。そうした人たちが、自分よりひと回りもふた回りも年下の人がやっていることに面白がって耳を傾けられるのは、そうしたフラットな関係が人と人をつなぎ、社会をよい方向に導いてくれることを知っているからだと思います。
今、日本では、世代間の分断が進んでいて、互いのことをあまり知りません。そうした無知と無理解が大きいほど、トラブルは起きやすいものです。教師も児童・生徒も互いに学び合い、それぞれの価値観を尊重することができると、自分と同じように他者も大事にしようとします。地政学的な視点からも、そうした相互関係は、皆がよりよい世界をつくっていくための第一歩です。先生方の力で、学校をもっと自由で、教師と児童・生徒といった世代の垣根を超えて学び合うことができるようなフラットな場にできないでしょうか。例えば、「総合的な探究の時間」等で、生徒が自分の興味・関心に基づいて設定した課題に、教師も生徒と一緒に取り組んでみるというのも一案だと思います。
何かをしようと思ったら、何かを捨てる
最近、英国の企業を取材したのですが、彼らは新規のプロジェクトを興す際にまずするのは、社外の人材の募集だそうです。考えてみると、新しい仕事ができたら新しく人も入れるということは、あたり前のことです。ところが日本では、新規事業を始める時は現状の人員でやり繰りしようとする風潮が強いように思います。
学校においても、教育の内容を変えたり、範囲を増やしたりするのであれば、その分の人手を増やすか、待遇を改善していくべきだと私は思います。現在の日本における学校教育では、新課程学習指導要領により「総合的な探究の時間」、「情報Ⅰ」など新しい指導内容が加わっています。従来の指導に加えて、急に個に応じた指導や答えが一律でない探究的な学びなどを行うのには無理があるはずです。そうした国レベルでの抜本的な改善が求められる中で、日々多くの業務をこなしつつ、子どもたちと向き合っている先生方には尊敬の念しかありません。教育はやりがいがあるからこそ先生方には、増え続けるタスクを我慢してこなすのではなく、自分を労っていただきたいです。人は余裕がなくなると、よいアイデアを生み出しにくくなりますし、他人に対して非受容的な態度を示してしまうものです。新たな課題や達成すべき目標が次々と出てくる中で、それらを乗り越えるには、既にある仕事やすべきことを意識的に減らしたり、無くしたりすることがとても大切だと思います。
国際情勢への興味・関心の喚起を始め、大切だけれども授業で伝える余裕がないことはたくさんあります。教育を学校だけに担わせるのではなく、社会全体で担う必要性が高まっているのだと思います。「13歳からの地政学」を読んだ中高生からは、「世界の仕組みが分かったことで海外に興味を持った」「歴史の授業で習ったことはこういうことだったのかという気づきがあった」といった声を聞きました。海外に行ったり、学校で習ったりしなくても、「13歳からの地政学」が子どもたちにとってグローバルな知識や視点を持つきっかけになったり、忙しい先生方にとってわずかでも助けになっていたりしたら、うれしい限りです。社会全体で教育を担っていくという考えが、社会の様々な場面で実現されていくことを願っています。
(本記事の執筆者:神田 有希子)