杉山知之(すぎやま・ともゆき)

デジタルハリウッド大学学長

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パソコンが登場する前の1970年代初頭、私は既にコンピューターを使い始めていました。それから現在に至るまで、コンピューターが世界を変えていく様子を何度も目のあたりにし、そのインパクトの大きさを実感してきました。新時代の人材育成を目指してデジタルハリウッド大学を開学してから20年以上が経ちます。私の生い立ちを振り返りながら、これからの人材育成や教育にとって大切なことについてお話しします。

小学生の時に見た代々木体育館の衝撃が、建築学科に進むきっかけに

私が生まれたのは1954年(昭和29年)。私は初期の団地育ち、祖父母は原宿の木造平家に住み、薪で風呂をたいていました。地方部はもちろん、東京にも高層ビルが1棟もない頃です。天を衝くビルの明かりはなくても、未来は明るく輝いていた時代でした。
小学生の頃の思い出と言えば、土曜日に開催されていた科学教室。近くの小学校から理科担当の教師が有志で集まり、硫酸や水酸化ナトリウムなどを使った実験や、釘とニクロム線を使った3極モーターの製作などが行われました。その科学教室に参加すれば、誰もが科学少年・少女になれましたし、危険を感じながら実験を行った経験は、リスクを単に排除するのではなく、起こりうる問題に適切に向き合うことの重要性を学ぶ教育効果がありました。
私が小学5年生だった1964年(昭和39年)に東京オリンピックが開催され、その際に丹下健三氏が設計した代々木体育館は、巨大な円盤が地球に降り立ったように見え、その時受けた衝撃は今も忘れられません。高校生の時に進路を決める際、電子工学科と建築学科で迷いましたが、代々木体育館の衝撃が私を建築学科に進ませました。

変化を受け止め、時代の先を行く力を育んだのは、両親の存在と中学・高校生時代の社会情勢

中学校時代はロックに夢中で、音楽が世界を平和にすると信じていました。しかし、高校生になると、学生運動が激しくなり、社会全体が大きく揺れ動き始めました。東京大学を始め、多くの大学では授業の中断や休止が余儀なくされ、一部の高校にもその影響が及びました。あさま山荘事件は私が高校3年生の時に起きました。警察隊が山荘に突撃する様子はテレビの生中継で見ました。中学・高校時代のわずか数年間で世の中が大きく変化していく様子を肌で感じたことは、その後の私の人生に大きな影響を及ぼしました。40歳の時にデジタルハリウッド株式会社を起業して以降、デジタル技術の急速な進展に伴う社会変化の先端を走り続けていられるのは、10代の多感な時期に社会の急激な変化を目のあたりにしたことで、受容力や柔軟な対応力といった資質・能力が自然に養われたからだと考えています。

高校時代はロックバンドを組み、自宅はメンバーのたまり場と化していました。当時は「ロック=不良」といったイメージが非常に強かったにもかかわらず、私の両親はたとえ夜中でもバンドのメンバーにおいしいご飯を出してくれました。大きな音で練習するものですから、近所から苦情を言われたこともありましたが、父は「子どもが好きなことを夢中になってやってるんだから」と、苦情を言ってきた人を追い返していました。今振り返ると、両親は新しい世代が持ち込む文化を楽しむことができ、子どもの自由を最大限に尊重してくれる人でした。私はとてもリベラルな家庭で育ったと思いますし、当時の時代の変化を前向きに受け入れる土壌を築いてくれたのは両親だったのかもしれません。

「選考時、ニコニコしていたらMITの研究員に」の謎

日本大学の理工学部建築学科に進学し、好きな音楽に携わりたくて建築音響研究室に入りました。大学院を経て助手になり、Bunkamuraオーチャードホール・コクーンホールを始め、20以上のホール設計に携わりました。

助手として8年ほど経った頃、国際的研究機関を日本に設立するプロジェクトが立ち上がり、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボに客員研究員として派遣されることになりました。英語が話せない私が選ばれたのは、まさに青天のへきれきでした。赴任後しばらくして、ラボの所長に「なぜ、私を選んだのか?」と尋ねたところ、「プレゼンの時、ニコニコしていたのは君だけだったから」という答えが返ってきました。メディアラボは、その研究内容だけでなく、そこに集まる人々が築く文化そのものも持ち帰ることができる人材を求めていました。メディアラボの文化とは、学部や学科の垣根を超えた様々な人が、互いを認め合いながら、皆で社会をよりよくしようと考え、未来をつくっていく、その方向性や空気感のことでした。当然、高いコミュニケーション力が求められますから、その力を持っていそうな私に白羽の矢が立ったのだと思います。

メディアラボでの研究からは多くの刺激を受けました。それまでは、コンピューターの中の世界は本物ではなく、あくまでシミュレーションだと捉えていました。ところがラボの皆は、コンピューターを利用することによって、コンピューターの中の世界をリアルな世界に拡張しようとしていたのです。人間の限界をコンピューターを利用して押し広げていこうとする前向きな志向性を、ラボにいた3年間で叩き込まれました。その基本的な考え方は、後にデジタルハリウッドを開学する礎になりましたし、AI社会を生きていくすべての人が心に留めておくべき視点でもあると思います。

「夜明け前の太陽」を見いだす力

デジタル技術を扱うビジネスは無限に創造することが可能です。私が創業したデジタルハリウッドは、1994年に社会人向けの職業訓練校としてスタートし、その後、2004年に大学院を、2005年に大学を設立し、領域を広げてきました。大学院大学設立は、起業した時から目標にしていました。ただ私はもっと未来を見ていました。受講生たちがやがて家庭を持つ。彼ら、彼女らの子どもたちは、デジタルコンテンツ制作のプロフェッショナルに育てられることになる。そして親として公教育に触れた時、これは未来に繋がらないと必ず気づく。学校が変わらないようなら、未来が見える保護者を先に育てようと思っていたわけです。私は気が長いのです。デジタルハリウッドという学び舎を通して、そんな思いに共感してくれる仲間を地道に増やそうと考えたのです。

私は現在、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、多くのサポートを受けながらも、多忙な日々を送っています。患者の立場になると、医療や介護の現場で生成AIが活躍できる場面とその限界が分かります。今後はAI化が可能な場面が格段に増えるでしょう。領域を問わず、専門的なプログラミングの知識がなくても、欲しいツールを自らつくることができる技術をすべての学生が学ぶべきだと思っています。

デジタルハリウッド大学の特徴はまず、体制にあります。社員たちは大学を自分たちでつくり、運営していて、多くの大学の教授などが行っている事務作業や講義、卒業制作のサポートまでを大学事業部が担っています。シニアの社員は教授のリクルーティングも行っています。デジタルコンテンツ産業の分野で現役で活躍している教授たちが、自身の専門性を伝えることに集中できるような環境を構築しています。

本学がさらにユニークなのは、学生へのサポートです。大学ですから、学則や日々の運営上のルールはあります。しかし行動力のある学生ほど、ルール上はできないことになっていることを、やらせてくれないかと提案してきます。それに対応するのが現場の大学事務局の社員たちです。学生の希望をどうすれば実現できるか、関連部署との調整から予算の確保まで、できる限りの支援をします。

そうした現場の経験を蓄積しつつ、社員たちは常に多くの工夫を重ねています。それにはクリエーティビティが必要です。すべては学生という顧客のためです。それはまさに「株式会社立」ならではの考え方であり、デジタルハリウッドの文化です。そうした環境で学生たちは、デジタルを駆使して世界のどこでも生き抜いていける力を手に入れます。言い換えると、自立できる力を得ることで自身の「自由」を得ることの重要性とそのスキルを、4年間の学生生活で体得します。

デジタルハリウッドの運営方針や文化は、教育のフィールドこそ異なりますが、小・中学校・高校の教育にも通じるものがあるのではないでしょうか。未来を生きる若者にどのような支援をすれば、彼ら、彼女らがより力を発揮し、活躍できる世界を広げられるのかを考え、実行し続けること、そして支援する教職員の側にクリエーティビティや柔軟な姿勢が必要であることは、極めて不安定で変化の激しい今の世の中を見れば一目瞭然です。小・中学校・高校の教育や家庭においても、子どもたちがそうした経験を積み、感性が育まれる場であってほしいと願っています。

 

(本記事の執筆者:神田 有希子)