人は学び続ける存在である。それは私の学びに対するアプローチの礎をなす考え方です。私が提唱する「学習学」は、人が生涯にわたって学習歴を更新し続けるという観点から学びにアプローチし、これからの社会に必要な学びを考える学問体系です。「学習学」とは何か、従来の教育学とはどこがどのように異なるのか、これからの社会のあり方を踏まえながらお話ししていきます。
生涯にわたって「学習歴」を更新し続ける
人は生まれて間もなく、目の前にあるものに触れようとしたり、それを口に入れようとしたりします。また、就学年齢前の子どもでも、学校で質問の仕方を習う前から、「これは何?」「あれは何?」と知識を得ようと、周囲を質問攻めにします。それらは環境を認知しようとする学習行動で、人間の生来の力です。つまり、人間は生まれながらにして学習者なのです。
ところが就学年齢に達すると、学校に行って「教育を受けること」が「学習すること」と同義になってしまいます。本来、学習とは、教育を受けることだけを指すものではありません。例えば、家事や育児、介護ができるようになることは、人生でとても大切な経験であり、学習の1つです。しかし、ある会社で働きたいと思った時に提出を求められる履歴書には、最終学歴や職務経歴の記入欄はあっても、家事経験などの記入欄はありません。それらは、会社においては価値を生み出すためのプラスの経験として扱われていないように思います。
会社勤務の経験がある人なら分かると思いますが、仕事ができる人は必ずしも学歴が高いとは限りません。それまでの人生で様々な苦労や努力を重ねたり、会社に入って仕事をしたりする中で人間関係について学び、実務の能力を高めてきた人が、「仕事ができる人」なのです。
現代は人生100年時代と言われます。これからの社会で評価されるのは、人生の6分の1程度の期間に受けた学校教育の証明書に過ぎない最終学歴ではなく、何歳になっても日々の社会生活の中で学びを止めずに更新し続けた「学習歴」です。それは「生涯にわたって経験から学び、成長する」という、人間が生まれながらにして持っている力を信じて発揮する営みに他なりません。
主体的に学び、自己変容を重ねていく学習者を育てたい
私が提唱する「学習学」は、人が生涯にわたって学習歴を更新し続ける観点から「学び」にアプローチしています。「学習学」を教育学との対比で説明しましょう。教育学は、教育のあり方やその方法を研究する学問です。主に学校教育を職業とする人が学び、日本では150万人ほどいる教師を主な対象としています。その教師が講義形式の一斉授業を前提に、児童・生徒・学生をいかに「教えるか」に学問の主眼が置かれています。
それに対して「学習学」は、学習する人すべてを対象とした学問です。すべての人がいかにして「主体的に学ぶか」という点を重視しており、1対1の個別指導や1対多数での学び合いなど、より多くの学習形態を前提としています。
これまでの教育学では、様々な知識や技能を授けることで、その人のスキルを高めることに主眼が置かれており、人間としての大きさを変えることは相対的に軽視されがちでした。それに対して「学習学」は、自ら学ぶ経験を通じて人間の成長や進化を図ることを目指しています(図)。そうした成長は、優しさや思いやり、判断力、決断力、勇気や先見性、想像力、創造性、道徳心、異文化への感受性など、目に見えにくく、お金に換算しにくい面での変化であることがほとんどです。教育学における「学び」ももちろん生きていく上で必要ですが、「学習学」における「学び」、そして自己変容を重ねていくことこそが、これからの社会を生きていく上で必要不可欠なのではないでしょうか。
自己変容による人間的成長
リスキリングの本質は「学び重ね」にあり
現在、急速な技術革新やグローバル化に伴うビジネス環境の変化を背景に、リスキリングが注目されています。英語のスペルでは『Re-skilling』、日本語では「学び直し」のことです。生涯学び続けることの一形態としてリスキリングはとても大切であり、今後、確実に社会に浸透していくと考えます。
国が示す学力の定義にひもづけて考えると、現在注目されているリスキリングは学力の3要素のうちの「知識・技能」が中心で、それ以外の要素への言及が十分とは言えません。AI化が進む社会では、コーチングやファシリテーションといった人間関係力がますます重要になります。そうした資質・能力を身につける学習歴も更新し続けることで、そもそもの目的である「今後のビジネス環境で活躍できる人材」を育成できるのではないでしょうか。
人間として学び続け、成長し続けるということは、学びを「直す」というよりも、学びを「重ねる」という意味で、「学び重ね」という表現が適していると私は考えます。これまでの学びを白紙にして正すのではなく、これまでの学びも透けて見えていて、その上に新しい学びを重ねて分厚くしていくイメージを持つと、これからの時代に必要な学びをより本質的に捉えられると思います。
「学習学」の観点から考える学校教育の課題
教育学に基づいて行われている学校教育を「学習学」の観点から見ると、これまでの慣習上の問題も含めて、いくつかの課題があると考えます。
まず、AI化が進んだ社会では、AIの得意分野はAIに任せ、他の分野を人間が担う分業が基本となります。そのような中で、学校現場においてAIに関する知識やスキルが重視されがちな風潮にはやや疑問があります。人間が担うべきことは何かを考え、人間に求められる力を教育によって伸ばす。当然、従来とは異なる内容や方法にも取り組まなければなりません。AIに関する知識やスキルはもちろんのこと、探究学習や学び合いなどを通じた人間関係力の深化なども重要になってきます。教師のあり方を問い直したり、カリキュラムを抜本的に改革したりするなど、さらに切り込んだ視点も必要でしょう。それらは教育の力点を変える、とても大きな変化であるにもかかわらず、真剣に向き合っている学校・自治体は少数にとどまっているのではないでしょうか。現在、大学入試改革が進みつつありますが、現状は出題者があらかじめ決めた「正解」と合致した解答が評価される入試問題がほとんどです。学校教育によって「正解」を求めさせようとするマインドセットを子どもに植えつけているのならば、2、3年前の「正解」が「正解」ではなくなっている変化の激しい時代において、それは非常に危険な状態です。もちろん、学校教育だけに責任があるのではなく、「失われた30年間」で日本社会全体がチャレンジ精神を尊んでこなかったことも、そうした状態を生んでいる要因の1つだと考えます。
古い教育観とこれからの学習観
課題は1人で取り組むのがよいと子どもに思い込ませてしまっている風潮も問題です。誰にも相談せずに課題を1人で抱え込んで取り組むのではなく、周りと協働しながら取り組む姿勢を学校でも身につける必要があります。最近はPBL(プロジェクト型学習)やグループ学習など、協働的に課題に取り組む学習が増えており、さらなる普及・拡大が急がれます。
教育者と学習者が明確に分離している点も問題です。「学習学」の考え方では、人は一生学び続けることを重視していますから、教師が常に子どものお手本である必要はありません。教師自身が学びを楽しむことや、子どもが教師から「教わる」のではなく、主体的に学ぶことが何より大切です。
学校教育には、教師個人では解決できない問題が数多く存在していますが、個人や学校単位でできることもたくさんあります。次回は、次代を生きる子どもたちのために、教師一人ひとりができることを中心に、これからの教育について考えます。
(本記事の執筆者:神田 有希子)