幅広い領域で精力的に取材や執筆活動をされている、編集者・ライターの太田美由紀さんによる連載コラム「子どもと教員がいきいきと動きはじめる学校」です。
今回は、「学びの主体」になるとはどういうことかというお話です。第7回「学びたい」を止めない とも深く関係します。
※筆者プロフィールは末尾リンクから
「わからない」は「わかる」よりもずっと大切
今回は、「学びの主体」になるとはどういうことかというお話です。第7回「学びたい」を止めない とも深く関係します。
今、教育は変わらねばならぬという風が吹き、現場でもいろいろな言葉が飛び交っています。「主体的な学び」「個別最適な学び」「協働的な学び」「自己調整学習」「自由進度学習」「探究学習」——。そして、「自己選択」や「自己決定」が大切だ、と。どれもつまり、子どもが「学びの主体」になるようにしたいわけですが、これまでのやり方では、それがなかなか難しいという声も聞こえてきます。
取材をさせていただいた先生の中には、「言葉としては理解できるけど、実際にどうすればいいのかわからない」「そのために授業を変えようとやってみてはいるが、本当にこれでいいのかわからない」「子どもたちに決めさせたいが、そうすると授業が進まない」などと、話してくださる方もいました。このように正直に表現された先生方に心から敬意を抱きます。
ある時、「わからない」は「わかる」よりもずっと大切だと教えてくださった先生がいました。「わかったと思ったら、もうその先は探究しようとしませんから」と。それは子どもたちについての話でしたが、大人もきっと同様に、どうすればいいか「わからない」ときこそ、探究のチャンスなのだと思います。
本当に「わかりたい」と思って、「わからない」にチャレンジするのは本来おもしろいことです。私たちは、よかれと思って効率のよい近道を子どもたちに与えてしまいますが、学習面だけでなく、遊びでも、クイズやゲーム、パズルなどでも同じです。ヒントや答えを途中で教えられたり、夢中で取り組んでいる工作に口や手を出されたりすると、途端にやる気を失ってしまうことがよくあります。
「わからない」をより「わかる」ように、「できない」をより「できる」ようになりたいと(人から言われるのではなく)自ら思ったことについて、自分で考え、自分なりのやり方でやってみるプロセスこそが本来は楽しい。これは誰もが経験しているはずなのですが、私たち大人は忙しすぎて、そのプロセスを楽しむことを長らく忘れてしまっていたのかもしれません。
誰かがつくった完璧な泥だんごより、自分でつくった泥だんご
「わからない」をより「わかる」ように、「できない」をより「できる」ようになりたいという思いがまずその子自身に生まれ、自分で考え、自分なりのやり方でやってみることが「学びの主体」となることだとすると、学校ではどんな場面が思い浮かぶでしょうか。まず思い浮かぶのは、探究学習やプロジェクト学習(活動)でしょう。
探究学習やプロジェクト学習(活動)などで、子どもたちがそれぞれの興味を持ち寄ってテーマからじっくり話し合い、畑を開墾して土づくりからこだわって野菜を育てた、豚を飼って解体するまでを体験した、街の人たちと協働して年間を通して活動した——。そんなダイナミックな実践を聞くたびに、「うちの学校ではできない」と暗たんたる気持ちになるという先生も多いのですが、決められた場所や与えられた同じテーマの中でも、子どもたちが「学びの主体」になることは十分に可能です。
そもそも、子どもが「学びの主体」となることがなぜこんなにも大切なのか。そのことについてハッとさせられる機会がありました。
今年の夏、NHKが過去に放送した番組から名作を厳選して放送する「時をかけるテレビ」という番組で、「光れ! 泥だんご」(2001年NHK「にんげんドキュメント」)というドキュメンタリーを観ました。泥だんごブームの火付け役となった番組です。そういえば、我が家の玄関にも息子たちがつくった泥だんごがズラリと並んでいたのを思い出します。金属の球のようにピカピカでツルツルの、あの泥だんごです。
番組の舞台は、園児たちが泥だんごづくりに夢中になっている保育園でした。ほとんどの子どもたちが自分の泥だんごを大事そうに持ち歩き、より丸く、よりピカピカに、よりツルツルにしたいと、一日中磨いていました。
そこで、京都教育大学教授(番組当時)で発達心理学が専門の加用文男さんが、あることを試しました。加用さんがつくったピカピカでツルツルの完璧な泥だんごを無言で渡したときの園児の反応を観察するのです。
子どもたちは、最初こそ「うわ〜、すごい!」と言ってうれしそうに受け取ります。しばらくは持っているのですが、そうすると自分がつくった泥だんごと、加用さんがつくった泥だんごで両手が塞がってしまいます。さて、そこからどうするか。
誰よりもピカピカでツルツルの泥だんごですから、そう簡単には手放しません。しばらくは両手に泥だんごを一つずつ持ってウロウロと歩き回ります。しかし、試された子どもたちは、最後には必ず、加用さんからもらった完璧な泥だんごをそっと壊さないように手放します。誰もが肌身離さず大切に持ち続けたのは、自分でつくった泥だんごでした。
何日もかけて自分で磨き育てた泥だんごではありますが、あまり光り輝いているとは言えません。しかし、どんなにピカピカでツルツルの完璧な泥だんごよりも、大切なのです。子どもはそのことを体験としてとてもよくわかっています。
その番組では、ある子が転んで、何日も磨き続けてきた泥だんごが潰れてしまった場面もありました。たくさんの子どもたちが集まってきてその子をなぐさめていました。その子の悲しさや悔しさが心から理解できるのでしょう。
そしてまた、大切にしていた泥だんごが壊れてしまっても、子どもたちはまた、新しい泥だんごをつくり、磨き、育て始めます。自分で磨く喜びを知っているからです。
自分でわかるようになりたい。自分でやりたい。人との比較ではなく、客観的な評価ではなく、自分なりにわかったこと、自分なりにできるようになったことこそが、その子にとってかけがえのない宝物になるということを、改めて教えられました。
「シナプスがつながるような瞬間」を見逃さない
もう一つ、ある公立小学校の先生から興味深いエピソードをうかがいました。この夏、その先生は同僚の先生たちと一緒に、地元のお祭りに実験コーナーをつくって参加しました。ペットボトルで雲をつくったり、水の中に小さなシャボン玉をつくったりする簡単な実験です。特に、水の中にシャボン玉をつくるコーナーが人気だったと言います。
泡が壊れないように調合した液体を透明のコップに入れて、ストローを指で押さえ、水を持ち上げて水滴を落とし、泡をつくります。水の落とし方にコツがあり、最初はなかなかうまくできないのですが、就学前の子どもたちから小学生まで、10分でも15分でも、自分でできるまで集中して何度も挑戦します。それを間近で観察していたその先生は、こんな感想を教えてくださいました。
「いつもはクラス全体を見ているので一人ひとりをじっくりと見ることがなかなかできないのですが、じっくり観察できて私も本当によい体験になりました。集中して何度もやってみるうちに、その子がコツをつかんでシナプスがつながるような瞬間があり、とても喜んでいる様子が見られました。子どもってすごいなあとしみじみと感じたのです。
それまで学校では、たとえば休み時間にやっていたことに集中していて次への切り替えができないときなどは、『ゆっくりでいいよ』と言いながらも、内心は『そろそろ教室移動してほしいんだけどなあ』などと思っていましたが、今は、『こんなに集中しているのだから、この子の中で何かが起こるかもしれない!』と心から思えるようになりました」
子どもたちが「学びの主体」となって学ぶ喜びを感じている瞬間は、日常にもたくさんあるようです。先生が子どもたちをどう見とることができるか、その子が「学びの主体」となっている瞬間を逃さずに捉えることができるか。それを授業にどうつなげるか。そのような、小さな視点の転換が、はじめの一歩になりそうです。
「主体的に学習に取り組む態度」を評価するとき、それは子どもの「できる・できない」を値踏みするのではなく、「主体的に学習に取り組む態度」を邪魔せずはぐくむことのできる環境をつくことができているか、「主体的に何かに取り組む態度」を見逃さずに捉えることができているか、という先生自身の振り返りにもなるのかもしれません。
もしもこれを読んでいる皆さんが、「子どもたちが『学びの主体』になるといいな」と思っていて、今はあまりできていないと感じているのだとすれば、先生自身が「学びの主体」となる大きなチャンスです。誰かの成し遂げた実践の手順を効率よくそのままに真似するよりも、自分なりのやり方で失敗を重ねながらやってみるプロセスを楽しみ、シナプスがつながる瞬間の喜びをぜひ感じていただければと思います。
第9回 「先生の役割」を見直す は、12月12日に公開予定です。第8回で手にした視点を持ったうえで、子どもたちが「学びの主体」となる環境をデザインし、調整するにはどうすればよいのでしょうか。板書の本来の役割や、子どもの学びを促進させるためにできることについても考えます。
※本連載は、太田氏が学校取材を担当した以下書籍より再構成したものです。詳しい事例については書籍をご参照ください。
『学校とは何か 子どもの学びにとって一番大切なこと』(汐見稔幸 編著)
本体価格 1,000円(税別)、出版社 河出書房新社
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309631769/
太田美由紀