取材・文/太田美由紀 ※筆者プロフィールは末尾リンクから
撮影/武内太郎

ー シリーズにこめた思い ー
社会の多様化・多層化のなか、一人一人の学びや成長の質をいかに保障していくのかがますます重要になっています。そのためには地域性や個人の発達特性の違いなど、さまざまに考慮すべきことも見えてきています。ただ、課題の原因も複雑化しいて、学校だけ、家庭だけでは対応が難しいことや、従来の制度や発想だけに頼っては行き詰ってしまう事象も増えています。
そこで、学校を起点にして、先進的な取り組みで課題を解決しようとチャレンジしている事例から、これからの教育を考えていきます。
(企画・ベネッセ教育総合研究所 石坂 貴明)

 

(写真左より)天理市長の並河健氏、子育て応援・相談センター「ほっとステーション」の主幹を務める中尾俊夫氏(臨床心理士)とスーパーバイザーの竹本美穂氏(相談員)。

部局横断の本質的取り組みで学校を救え!

公立学校の多くは疲弊しています。精神疾患で休職した公立学校の教育職員は、令和5年度、7119人となり、過去最多となりました(文部科学省調べ)。最も多い理由は「児童・生徒に対する指導そのものに関すること」——保護者対応の難しさは年々深刻になっています。

奈良県天理市では、学校生活を中心とした子どもや子育てに関する保護者の悩みや不安を受け止める「ほっとステーション」を令和6年4月に立ち上げました。学校と市長部局も参画するほっとステーションがチームになって保護者や教員に伴走することで、学校現場が大きく変化しはじめています。

保護者や教員の視点を広げ、「こども理解」を促進しているほっとステーションを中心に、自ら現場に足を運び意欲的に教育改革を進める天理市長の並河健氏と天理市教育長の伊勢和彦氏にお話をうかがいました。

※全2回の第1回

日本初! 学校任せを超えた相談窓口「ほっとステーション」

「天理市も全国の学校と同様、教員はすでに飽和状態です。子どものために新しい取り組みをはじめるどころか、どんなことがしたいかを考える余裕さえ教員にはありません。教育実習生の中には現場を体験して進路を変える学生もいるのが現状です」(並河氏)

天理市長である並河健氏は、地域コミュニティと学校の関係を再構築したいと考えているものの、それ以前に、このままでは学校にその余力がないことに気づかされたと言います。
 

天理市 並河健市長。8年間外務省に勤務し、日本APEC準備事務局課長補佐やアフガニスタン支援室課長補佐なども務めた。戦略プランナーとしての民間経験も。2013年より現職。3期目となる。

 
天理市には小学校9校、中学校4校がありますが、昨年度(令和5年度)は教員6名が退職、8名が休職。その背景には保護者からの理不尽な要望も多く、教員が夜間の家庭訪問を強要される、「先生をやめろ」と言われる、何時間も叱責されるなどもあり、そのほか市として対応に追われる重大案件が重なりました。

現場の負担は大きく、管理職になりたくないという教員が増え、数年後には管理職不足も予測できます。市内の教職員にアンケートを行ったところ、次のような結果となりました。

「日常業務で保護者対応を負担に感じている」77.5%
「保護者対応で授業に支障が出たことがある」63.3%
「過去に保護者からの理不尽なクレームの心労により、1日以上休んだことがある」25.8%

これまで教員も誠意を持ってできる限りの対応をしてきたはずです。保護者においても教員を追い込むことでは何の解決にもならないことはわかっているはずなのですが、なぜこのような状況になってしまうのか。天理市では、その背景をリサーチしながら解決の糸口を見つける必要に迫られていました。

そこで、根本的な問題解決を図るため開設されたのが、ほっとステーションです。保護者からの学校への要望や苦情、相談などを、学校を通さず直接受ける事業です。これは、日本初の試みとなりました。心理や発達の専門的な知識を踏まえて受容し共感しながら、学校と保護者の信頼関係を再構築し、問題解決を目指します。

奈良県天理市 子育て応援・相談センター ~ほっとステーション~の事例
(天理市HPおよび天理市へのヒアリングをもとに文部科学省作成)

 
「この事業について文部科学省に相談に行ったところ、偶然にも文部科学省が同様のモデル事業を考えていたのです。今まさに、全国の現場で同様の問題が起こっているのだと思い知らされました。天理市もモデル事業として委託を受けることとなりました」(並河氏)

文部科学省のモデル事業では、対応窓口は学校のままで専門家を「学校問題解決支援コーディネーター(仮称)」として設置。学校が専門家と連携して行政が支援するとしています。天理市はさらにもう一歩踏み込み、対応窓口を学校ではなくほっとステーションに一本化することで、保護者対応のワンストップサービスを立ち上げたのです。

専門家と学校の教員がチームになり、子どもたちの環境を整える

設置当初、ほっとステーションは「 “モンスターペアレント”を学校から遠ざける対策だ」と誤解されて報道されたこともありました。しかし、実際の目的は「学校生活を中心とした子ども・子育てに関する保護者の不安を受け止め、『こどもまんなか』の視点に立ったより良い学校園所づくりに繋げる」ことであり、それは市のホームページにも明記されています。

例えば保護者が憤慨して何かを訴えるとき、その怒りの背景には、子どもを思う気持ちがあります。家庭で何か困っていることがあるのかもしれません。

教員が保護者と限られた時間でやり取りをすると、目の前の保護者の一時的な納得や満足を目的としてしまうことや、かえって問題が難しくなることも考えられます。そこで、ほっとステーションでは、心理士(師)を含めた専門家がていねいに保護者の話に耳を傾け、整理することで、保護者の感情も落ち着き、その子に本当に必要な見立てや手立てを考えることができるようにサポートしています。

保護者の皆さんの言動の背景には、必ず何らかの不安や困り感、苦悩がある。子どもが抱えてきた生きづらさもあるかもしれません。そこにしっかりと耳を傾け寄り添うことで、根本的な解決が見えてくるはずです」(並河氏)

奈良県内の公立小学校に長年勤務し、定年退職後の2021年から教育長を務める伊勢和彦氏は、ほっとステーションの役割を次のように捉えています。

「保護者が生活や精神面で追い込まれているとき、それを教員だけで受け止めるのは難しい。専門的な視点も必要です。保護者の安心、教員の安心にほっとステーションは寄与していると思います」(伊勢氏)
 

天理市教育委員会教育長の伊勢和彦氏。教諭、教頭、校長を務め2020年に定年退職。2021年より現職。

 
しかし開設当初、一部の教員たちからは疑問も出ました。保護者からの要望や相談を直接受けなければ信頼関係をつくれなくなる、教員の責任放棄ではないか、と。

「教員が一切関わらないわけではありません。心理士(師)、スーパーバイザー(相談員)、学校問題支援員、そして学校の教員がチームになって、課題解決策を協議し、必要があれば学校へも足を運び、その子の様子を確認します。教員には、教員にしかできないこと、子どもたちに向き合うことに集中できる環境を整えたいのです」(並河氏)

例えば、中学生のいじめや特性に応じた対応については、担任の教員が受け持っている期間だけでなく、必要に応じて小学校、幼稚園などでの様子、生い立ちまでさかのぼって確認し、その背景を探ります。その子にとって必要な支援があれば関係機関とも連携しながらよりよい解決を模索する必要があるからです。

まさに「切れ目のない支援」です。厚生労働省はこれまでも、妊娠期から子育て期にわたる切れ目のない支援を推奨してきました。文部科学省も、以前から行政機関との相互連携を訴えてきましたが、福祉や医療の専門家と学校には、今なお乗り越えられない見えない壁がありました。また、教員の多くも、学校のことは学校の中で何とかしなければならないという強い使命感を持っています。

時には虐待や経済的な貧困など、福祉に関わる相談も見受けられます。そこに市長部局が入ることで、縦割りだった行政をよりスムーズに横断的につなぐことが可能になりました。
 

ほっとステーションは、心理士(師)5名、スーパーバイザーとして相談員2名、校長・園所長経験者13名がローテーションを組み6〜7名程度が常駐。必要に応じて関係各所につなぐ。

 
教育長の伊勢氏は、元教員の立場からほっとステーション理解促進に奔走しています。

「教育委員会は独立した機関であり政治は口を出さないものだという声も現場から届きました。しかしこの構想は、現場を経験した我々にとって非常に納得できるありがたいものだと希望を持っています。疑問の声が上がるたびに出向いて説明を繰り返し、PTAや学童の保護者の集まりにも市長と一緒に何度も駆けつけ質問を受けました」(伊勢氏)

実際に会って話をすると、並河市長の教育に対する見通しと、子どもたちへの熱意、そして誠意が教員や保護者にしっかり伝わると伊勢氏は言います。

「少子高齢化、不登校の増加、教員の減少という逆境の中で、教育現場は行き詰まっています。学校だけではどうにもならないところまで来ている。答えが明確に出ない難しい問題について、行政、教育委員会、専門家、そして保護者も、みんなでチームになってどうすればいいかを考える必要があると思います」(伊勢氏)

今では校長会や現場の教員、PTAからも理解を得られるようになりました。最近では、学校で何か困ったことがあると「現場に様子を見に来てほしい」とほっとステーションに依頼が来るほどです。

ほっとステーションが始動してもうすぐ1年。今年度(令和6年度)の退職者は1名、休職者は2名。その理由は保護者対応ではなく自己都合によるもので、休職者は復帰する見通しです。

保護者や教員の視点を広げ、「こども理解」を促進する

ほっとステーションは保護者の不安や困り感に寄り添うだけでなく、保護者や教員の「こども理解」の促進にも大いに役立っています。

例えば、「嘘をつく」という行為をどう捉えるか。「学校で先生に自分のものをとられた」と親に訴えた子がいました。親が学校に「うちの子がこう言っている」とそのことを訴えたのですが、それはその子がついた嘘でした。しかし、そこで例えば監視カメラの証拠映像を見せて、教員が「とっていません」と保護者に伝えても根本的な問題解決にはなりません。その子の教員に対する信頼がなくなってしまうだけです。

そのときに考えるべきは、「なぜその子は嘘をつかなければならなかったのか」。その案件では、担当した臨床心理士の中尾俊夫氏がその子の見立てを次のように校長に伝えています。

・まず、嘘をつく行為について、なぜ子どもは嘘をつくのか、単なる嘘と捉えずに「誇張表現」と捉えるべきであること。これまで〇〇(子どもの名前)の成長過程や家庭環境の背景に誇張表現をしなければ聴いてもらえない体験が繰り返された可能性があり、誇張を収束させていくには、誇張表現であろうが、正当な表現であろうが、純粋に聴き続けてもらえると、無理な誇張が収まってくる。(相談カルテより一部抜粋)

また、下図のように特別支援の観点から子ども一人ひとりの特性やその行動の背後にある理由について理解を深めることを提案し、サポートすることもあります。通常の学級では、特別支援の視点を持ち合わせていない教員も多いため、専門家から学ぶ機会を得たことで、教員が子どもを見る視点も変わりつつあるようです。
 

「ほっとステーションがめざすこども理解について」の例。(天理市作成資料より)

 
令和6年12月末、ほっとステーションが設置されて8か月が経ちました。相談件数は186家庭、386件。学校や保育園、こども園、保育所などへの現場訪問件数は174件となりました。学校では、苦情や相談の電話も実際にほとんどなくなっています

「市長も私も、毎日全ての相談カルテに欠かさず目を通します。天理市の人口は6万人なのでできることですが、学校の小さな課題についても声が届くようになり、新たな課題も見えてきました。ジェンダーや校則の問題などにも市を挙げて取り組んでいます」(伊勢氏)

ほっとステーションにより保護者対応など教員の負担が減ったことはもちろんですが、困っている保護者や子どもたちの声の背後にある問題を検討し、改善していくことで、結果的に教員や保護者の「こども理解」が促進され、子どもたちにとっての環境調整につながっていることこそ、最も大きな成果だと言えそうです。

設立時の目的である「学校生活を中心とした子ども・子育てに関する保護者の不安を受け止め、『こどもまんなか』の視点に立ったより良い学校園所づくりに繋げる」の手応えを、現場はすでに感じています。それこそが全国から数多くの視察が訪れる理由でもあるでしょう。

天理市の教育の変革はこれにとどまりません。第2回では「みんなの学校プロジェクト」と「学校三部制」についてご紹介します。