宇宙はどのようにして始まったのだろう?――その問いに答えるには、138億年前の出来事を知る手がかりとなる10兆分の1以下の大きさの素粒子について、理論と実験の両面から探る必要があります。私は、そんな途方もないけれど、夢に満ちた学問領域を探る研究者です。一方で、大学で教壇に立ち、学生たちの知的好奇心に応えようと、彼らと議論を交わし、助言する教育者でもあります。今回は、数学や科学の楽しさ、それらを学ぶ喜びを子どもたちにどう伝えればよいのか、私自身の経験も交えながらお話しします。
「ああ、そういうことか!」と好奇心が満たされる心地よさが、
科学の道に進むきっかけに
思えば私は、幼少の頃から好奇心が旺盛な子どもでした。気になったことがあれば、「なぜ? どうして?」と、親を質問攻めにしていたものです。父はいつも仕事で忙しくしていましたが、可能な限り私の質問に答えたり、答えの代わりに本を買い与えたりしてくれました。質問の答えが分からなければ本を読む。答えを探す時の基本を、私は父から教わりました。
小学生の頃は病弱で学校を休みがちだったこともあり、本を読むだけではなく、テレビもよく見ていました。とりわけ教育関係の番組をよく見ていて、高校の数学を落語仕立てで分かりやすく説明してくれた番組は今も覚えています。また、科学の真理を身近なものに例えて説明してくれた理科の番組も記憶に残っています。その番組は、「うなぎが大好物の男が、うなぎ屋さんから漂ううなぎを焼く匂いを嗅ぎ過ぎて、うなぎ屋さんから請求書を突きつけられた。さて、代金を払うべきか?」という問いが投げかけられ、その答えを出すために、そもそも匂いとは何かを突き詰めるところから始まりました。うなぎ屋さんと請求書を突きつけられた男の間にガラスを置くという設定の下、実際にスタジオでうちわを使ってうなぎをあおぐことによって、空気中に小さな粉が舞う様子が映されました。その実験を見ながら、「匂いがするってこういうことなのか!」と腑に落ちたものです。
数学に興味を持った私に、父は中学校や高校の教科書を買ってきてくれて、それらもよく読んでいました。さらに、数学に限らず、興味を持ったことに熱中している私に対して、「そんなことよりも勉強しなさい」や「遊びに出かけたら?」などと言うことはありませんでした。父は一貫して、子どもの好奇心を大切にしてくれていました。そうした環境もあって、疑問に思ったことに対して「ああ、そういうことか」と納得する気持ちよさを知る経験を重ねられたことが、後に数学や科学の道に進むきっかけになったのだと思っています。
3歳の頃、研究者の父とともに撮影した写真。幼い頃は小児ぜんそくで、月に何回か点滴する時期もあった。父はそんな私の体を心配して、当時、大気汚染が深刻だった東京を離れるため、海外勤務を志願した。その後、小学6年生から中学3年生までの4年間、ドイツで過ごした。
自分で手を動かし、考えさせる理科の授業に引き込まれる
中学校時代は、父親の仕事の関係でドイツで過ごしました。体も丈夫になり、友人と遊んだり、スポーツをしたりすることの楽しさに目覚め、机に向かうことは二の次になってしまいました。そんな中、物理の道に進む決定的なきっかけが訪れます。帰国後に進学した高校の物理の先生との出会いです。その先生の授業はいつも実験室で行われ、型破りで刺激的でした。4月の最初の授業は今も忘れられません。先生は氷砂糖を生徒全員に配り、「できるだけ小さくしてください」と言いました。私たちはカッターやすりこ木など、おのおのの方法で砕いていくのですが、虫眼鏡で見ると粒がごろごろしていてまだまだ大きい。その授業は、そうしたことをしただけで終わりました。何が答えで、先生が何を意図していたのかも教えてもらえませんでした。答えが分からないから強く心に残る。「先生は何を言いたかったのだろう」「何を意味していたのだろう」と3年間、ずっと考え続けましたが、結局答えは教えてもらえませんでした。後に物理学者になってから先生にお会いする機会があったので、私が「あの時の授業は、原子がすごく小さいことを伝えたかったのではないですか」と尋ねたところ、「よく分かったね」と先生。数十年かけて、ようやく答え合わせをすることができました。
教師という存在は、子どもにとって本当に大きいものだと思います。特に、進路選択を控える高校時代に教師の授業から受ける影響は、どれほど大きく重要であることか。私の場合は、物理の先生から「頭の中だけで考えるのではなく、実際にやってみる」「簡単に答えを教えない」といった形の授業を通して、自分で試行錯誤しながら問いの答えを導き出すことの面白さと大切さを教わりました。そして、科学の魅力に触れ、それを仕事にする道筋を示してもらいました。
反対に、残念な経験もあります。小学校時代、社会科の授業で世界の地域と気候を学んだ時の話です。授業で、地球は軸が傾いているため、緯度によって季節や日照時間の違いが生じることを習いました。その話を聞いて私は、「じゃあ赤道では、太陽が1年に2回真上にくるのだから、夏も2回ありますね!」と発言したところ、教師から「馬鹿だな」と、一笑に付されてしまいました。納得できなかった私は図書館に行き、本で調べてみました。すると、やはり1年に2回夏がある地域がありました。
教師だからといって、専門領域のすべてのことを知っているわけではありません。子どもの考えを頭ごなしに否定するのではなく、それにきちんと向き合うことが大切です。「ちょっと調べてみて」と、子ども自身による探索を促し、真実が分かったら、「そうだったんだね」と一緒に納得する。ものによっては、複数の説や確定には至っていない説に出合い、真実を追究したい気持ちが湧くこともあるでしょう。それが研究という行為につながります。ですから教師は、疑問が湧いたら、その疑問自体を大切にするということを知る経験を、幼いうちから子どもに積ませることが大切です。その方が教師にとっても、すべての問いに答えることより余程効率的で、何より子どもにとって生きていく上での大切な力となります。
大人は子どもの好奇心の芽を決して摘んではいけない
大学時代は授業にあまり出席せず、趣味の音楽にのめり込みました。コントラバスの演奏家として、音楽で食べていこうと真剣に考えたほどです。しかし、音楽の道へ進むことは難しいと感じ、大学院に進むことを決意しました。大学院へ入学後は、大学時代の遅れを取り戻そうと猛烈に物理を勉強しました。その中で、幼少期や高校時代に感じた科学の魅力や「ああ、そういうことか」と答えが分かる楽しさがよみがえり、根源的なことが理解できる素粒子の分野を専門的に研究するようになりました。
現在私が研究しているのは、宇宙物理学で取り扱われる、「ダークマター(暗黒物質)」という、宇宙に存在する正体不明の物質です。光などの電磁波で観測できないため、そう呼ばれています。宇宙をつくる物質のうち、陽子や中性子などの観測可能な物質はわずかで、ダークマターはその5~6倍も存在するとされています。ビッグバンによって宇宙が生まれた時にダークマターが宇宙全体に広がり、その中の10万分の1レベルの濃度の差から重力が働き、原子が集まり星が生まれました。ダークマターは私たち人間、星、銀河、言わばすべての母です。ダークマターなしには宇宙の成り立ちは説明できないのですが、実物は見つかっていない、未知の存在です。私はその宇宙創成期以来の生き別れを探す旅に出ているようなものです。
今でこそ世界中の学者がこぞって研究にしのぎを削っていますが、素粒子を研究分野に選んだ大学院時代は、「古臭い」と多くの教授や学界から相手にされませんでした。また、素粒子の計算ができるソフトを開発して博士論文を書いたのですが、誰にも認められず、落ちこぼれそうになったこともありました。
大学生までは研究したいことが絞り切れていなかったにもかかわらず、大学院で「これだ!」と感じた素粒子理論に出合い、周囲から認められなくても研究し続け、現在に至っています。その土台にあるのは、疑問が解け、好奇心が満たされる喜びを経験し、科学の魅力を知っていることです。それは親や恩師によってもたらされました。子どもからすれば、大人は権力ある立場にあります。それを利用して子どもの好奇心の芽を摘んではいけません。先生方には、自分は教える立場であり、知らないことがあることは許されないといった考えに凝り固まらないでほしいと思います。子どもと一緒に、対等に考える立場でいてほしいのです。そのことを、私自身も教壇に立つ1人として、自戒を込めて皆さんに強くお伝えしたいです。
(本記事の執筆者:神田 有希子)