自分らしい人生を生きるために、子どもも大人も、年齢や立場に関係なく、1人でも多くの人が質の高い探究学習を実践してほしい。そんな思いから、私は探究する学びの場「こたえのない学校」を運営しています。11年前に小学生向けの探究プログラムの開発・実践からスタートし、現在は「探究」をテーマに全国から年間100人程度の学校内外の教育者を迎え入れ、半年から8か月程度の長期研修を実施しています。多くの学校で探究学習が行われるようになった今、今回の記事がその本質を改めて考えるきっかけとなればと思います。

探究学習とは、未知の出来事に対する振る舞いを学ぶこと

私が代表を務める「こたえのない学校」では、探究学習に関する様々な活動を行っています。「良質な探究学習の普及」を理念に掲げ、国や業種の壁を超えたワークショップや研修、プログラム開発を行っています。
そもそも「探究学習」とはどのような学びなのでしょうか。それは、未知のものに出合った時、どのように振る舞い、どう向き合うかを学ぶことだと、私は考えています。変動の度合いが大きく、不確実性や複雑性が増しているように見えるこれからの時代、何が起きるか分かりません。そうした中で何かに出合った時に起こす行動によって、その人の人生は大きく変わります。例えば数年後に、日本もしくは世界を揺るがす出来事が起きたとしたら、その時、国は個人の振る舞い方を教えてはくれません。教科書にも答えはありません。それでも、私たちは何かを考え、判断し、社会に、そして自分自身の人生に向き合わなければなりません。そしてそれは、今日、明日のことかもしれません。誰も答えを教えてくれない自分の人生をどのように切り拓き、自分はどう振る舞っていくのか。よりよい社会をどうやってつくっていけばよいのか。そのための自分らしい方法を見極めていきます。つまり、人としての生き方そのものを学ぶことが「探究学習」と言えるのではないでしょうか。

探究学習の必要性がここまで叫ばれるようになったのは、時代の変化が大きいと思います。これまで私たちが受けてきた教授型中心の教育は、国家が求める知識・技能の効率的な習得を目的に、明治期に構築されました。学制が発布されたばかりの頃、貧困層や読み書きができなかった子どもたちも勉強できる手段を得られたことは、国にとっても大きなメリットでした。以降、現代を生きる私たちは勉強で競わされ、就職時に優遇される「学歴」というメリットを得て、教師も知識・技能を効率的に教えられる人が有能とされてきました。しかし、インターネットの普及、AIの進化により、知識は簡単に獲得できる時代になりました。そして、幼少期から学生時代までに求められる資質・能力もおのずと変わってきました。そうした背景は、現行の学習指導要領にも反映されています。

しかしながら、探究学習の授業や講演会などで高校を訪問していると、高い学歴を獲得して有名企業へ就職し、出世を目指すことに重きを置く傾向は依然として根強いものがあります。子ども自身もいわゆる難関大学と言われる大学に入りたいし、教師は進学実績が気になる。保護者も我が子には自由に好きなことをしてほしいと願いつつも、大学は卒業してほしいと思っています。教育現場は、旧来型の教育からの過渡期に立たされているのです。

「こたえのない学校」が主催する教育者向けプログラム、LCL(Learning Creator’s Lab)の活動の様子

「AI時代に有用なスキルは○○」と断じることは危うい

私は会社勤めをしていた頃、経営企画部、経営戦略部などの部署で10年後の世界を思い描き、そこに向かうための中期的な計画を立て、逆算して今は何をすべきかを考えるといった仕事をしていました。これから数年間、消費者はどういうものを好みそうかと推定し、その実現のために準備をしていくといった具合です。しかし今、10年後の社会が具体的にどうなっているのかまでは、正確に予測することは極めて難しいのではないでしょうか。例えば、AIの進化によって、人間を上回る知性が誕生する「シンギュラリティ」に遠からず到達するかもしれないといったことは予測できたとしても、具体的な時期も、その内容も特定することはできません。混とんとした今の世の中で、「AI時代に使えるスキルは○○」などと、一部の領域をワイルドカードのように扱って子どもたちを教育することは、10年後、20年後、果たして彼ら・彼女らにとってプラスに働くのでしょうか。それよりも、何が好きで何が得意かを見極められるような主体的な学びが必要なのではないでしょうか。子どもは元々「学びの種」を持っています。見聞きしたことのない問いやワクワク・モヤモヤした気持ちからいろいろな経験を重ね、より深く、新しい理解レベルへと自ら学ぶ過程が大切で、それこそが「探究学習」の本質だと思っています。

同様の課題意識から、私は探究「的な」学びとは言わずに、あえて探究「する」学びと言っています。「的」という言葉は、オーセンティックではない探究学習を許容するといった意味合いを持つと考えるからです。よく見られるのが、特定の知識・技能を「教授」ではなく、「探究的なプロセス」を通して「学ばせる」スタイルです。それでは未知のものに出合った時の向き合い方を学ぶことはできません。また、例えば、大学入試の総合型選抜で合格するためだけに探究学習を強化するのであれば、これまで重きを置いてきた受験学力の強化とその先にある学歴社会・立身出世をゴールとする価値観から何も変わっていません。価値の実現の手段が集団一斉指導から探究「型」に変わっただけです。実質的に、入試制度が一足飛びに変わることはありません。しかし、これからの社会と教育のあり方を真剣に問い直すとしたら、探究「的な」学びでは、その問いの答えを出すことはできないと思うのです。

インクルーシブ教育と探究学習はつながっている

私が探究学習に興味・関心を持ったのは、ごく私的な、偶然の出来事がきっかけでした。大学卒業後、ビジネスの世界に身を置き、仕事と育児の両立に悩みつつ、慌ただしく過ごしていた私は、子どもが通っていた保育園の父母会の仕事にかかわることになりました。「面倒なことが増えてしまった……」と、ネガティブな気持ちで父母会の仕事に臨んだのですが、始めてみると意外と楽しかったのです。園内外の先生方やママ友とのコミュニケーションを通して、仕事だけではなく、子育てにももっと向き合ってみようという思いが強まりました。それまで保育園になじめなかった我が子が友だちと遊ぶようになっていく変化を見たり、ママ友と子育てに関する話をしたりしていく中で、小規模ながらも地域の子どもの学びを支援する活動を始めました。その後、様々な専門家や関係者から学校教育に関することを学び、活動を広げ、現在に至っています。最近はインクルーシブ教育にも関心を寄せています。国内はもとより、先進的な研究・実践を進める海外のプロジェクトともつながり、それらを国内に紹介したり、私自らも重い障害のある子どもたちとのプロジェクト(FOXプロジェクト)などを立ち上げたりしています。インクルーシブ教育と探究学習は関連がないように思うかもしれませんが、すべての子どもが自分に誇りを持ち、子どものわずかな変化を周囲の大人が感じ取ることの重要性など、両者は本質的な部分でつながっていることが多いと感じています。

「こたえのない学校」のプログラムを受講した先生方からは、「自分自身が探究学習に取り組んだことで人生観が変わった」「『みんな違って、みんなよい』と思える職場や学校をつくることはできるのではないかと思えるようになった」といった声をいただき、先生方に探究学習の価値を実感していただけています。同様に、1人でも多くの子どもが、前向きな生き方を信じて進めるような「探究する学び」が学校で実践されることを願っています。

「こたえのない学校」の立ち上げ期に実施していた、様々な業界の社会人と小学生が一緒になって探究学習に取り組むキャリア教育プログラムの様子(2014年)

(本記事の執筆者:神田 有希子)

 

藤原さと(ふじわら・さと)

一般社団法人「こたえのない学校」代表

詳しいプロフィールはこちら