私は教育学と哲学を専門とし、多様で異質な人たちが、どうすれば相互に承認し合えるかを研究テーマとしています。これまで、数多くの学校現場や教育行政機関と対話を重ねながら、学校がよりよい社会を実現させる駆動力となる可能性や具体的な方策を模索してきました。今回は、学校教育の使命という原理・原則に立ち返りつつ、これからの学校づくりにおいて大切にしたいポイントについてお話ししていきたいと思います。
教育によって「自由の相互承認」への感度を高める
私は哲学を専門としていますので、少し大きい話になりますが、「そもそも学校教育は何のためにあるのか」について考えることから始めたいと思います。すべての子どもたちに対して最低限保証されるべき学校教育。その本質とは、一体、何でしょうか。
誰もが自由に生きられる力を育むこと、そしてまた、誰もが自由に生きられる民主主義社会を成熟させていくことが、公教育の最も重要な本質です。人類は約1万年にわたり、命を奪い合い、一部の有力者が富や自由を独占する歴史を繰り返してきました。しかし、そうした歴史を今後何千年続けても、平和な社会は訪れません。そこで200年ほど前に人類がたどり着いた答えが、「自由の相互承認」という考え方でした。「自由の相互承認」とは、自分が自由に生きるために他者の自由も認めること。互いに自由な存在であることを認め合うことです。世界中で「自由の相互承認」が実現すれば、誰かに一方的に支配されることなく、平和で、自分が望む生き方やよりよい社会を実現できると考えたのです。それは民主主義の根本的な考え方でもあります。
私は、「自由の相互承認」に対する感度を高めることが学校教育の使命だと考えています。人が互いに自由な存在であることを認め合い、それを土台にして自由に生きられる力を育むことこそが、学校教育の本質です。人が複数集まれば、それぞれの考え方がありますから、意見の違いが生じます。そこで権力や強い武器を持つ者が勝つのではなく、対話を重ねて着地点を見いだす。そうした市民を育むことが大切です。「自由の相互承認」を実現するには「自分たちがよりよい社会を創っていくのだ」という意志が重要で、そのような当事者としての意志を育むこともまた、教育の重要な目的になります。
均質であることは長所であり、短所
少し焦点を絞って身近な日本の学校教育について考えてみましょう。日本の学校教育システムでは、国内のどこにいてもよい意味で均質で、かつ上質な教育を受けられるようになっています。例えば、義務標準法によって、どんなマンモス校でも1クラスは最大35人までと制限されています。また、僻地教育振興法によって、山間部や離島にある学校は教育水準が下がらないよう、各種補助が受けられます。そうした様々な法制度で外形的な質が担保される仕組みを持っている日本の学校教育システムは、世界に誇るべきものです。しかし、課題も多くあります。
その1つが、同質性が高いために、変化を受け入れる許容度が低いことです。ほかの地域のやり方や従来とは異なることに抵抗を感じ、初めて出合う出来事や考え方を受容するまでにかなりの時間を要するのが現状です。
また、「自由の相互承認」の大切さが教育界に十分に浸透していない点も課題の1つかと思います。学制が発布された150年ほど前の日本において、教育の目的は殖産興業と富国強兵にあり、均質で上質な労働者や兵士の育成に重点が置かれました。教育は「自由の相互承認」の大切さをあまり意識せずにデザインされ、現在も当時の考えが少なからず残っていると思われます。
さらに、日本の学校には対話による合意形成を図る機会がまだまだ少ないことも課題と言えます。民主主義は、多様で異質な人たちの間における「対話を通した合意形成」を基本としていますから、その経験を学校教育の一環として積んでいくことは非常に大切です。しかし、日本の子どもたちにはその機会が不足しています。学校の中でも、社会に出てからも、与えられたルールに従うことに慣れていて、皆と同じ状態を好むという非常に残念な状況にあります。
以上のような「自由の相互承認」の感度を高める環境が十分とは言えない点が、現在の日本の学校教育システムの課題です。
学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合を
今こそ150年間続いてきた学校教育を変え、学校を「自由」と「自由の相互承認」の実質化のための場としていく時です。では、何をどのように変えればよいのでしょうか。私は3点あると考えています。
1点目は「学びの構造転換」です。皆が同じ内容を同じやり方で一斉に学ぶ従来型の学びから、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」による学びへと変えていくのです。「学びの個別化・協同化」とは、自分のペース、自分に合った学び方や場所で、必要に応じて他者の力を借り、自分も他者の力になりながら学び合うことです。「プロジェクト化」とは、カリキュラムの中核を「探究」とし、ただでき合いの問いや答えを学ぶのではなく、自分なりの問いを立て、自分なりの答えにたどり着くプロジェクト型の学びのことです。ものづくり、学術研究、問題解決など、様々なタイプのプロジェクト学習がありますが、どのタイプにせよ、自分なりの問いから始まる学びに没頭することは、知的好奇心が刺激されてわくわくできる学びになるでしょう。そのように、学びが個別化されていながらも周囲とゆるやかにつながり、支え合いながら、探究的に学ぶことが「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」です。
既に一部の地域、学校ではその実践が進んでいます。例えば、愛知県名古屋市では、市を挙げて学校改革に取り組んでおり、モデル校に指定された学校では、同じ時間に国語、算数・数学など、複数の教科を学べる授業スタイルや、プロジェクト型学習を取り入れています。
また、長野県伊那市にある伊那小学校では、もう何十年もの間、総合学習・総合活動をカリキュラムの中核とし、動物飼育や小屋づくりといった体験的で探究的な学びに没頭しながら、教科的な学習もまた自然とできるような実践を続けています。ほかにも、東京都内にある私立の中学・高校では週に1回、丸1日自分の好きなことに取り組める探究の時間を設け、生徒自身が自分なりの問いを立てて、自分の興味・関心に合ったテーマを学び込んでいます。このような例は、現在、全国に広がっています。
いずれにせよ、このような「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」は、「自由」と「自由の相互承認」の実質化に大いに寄与する学びのあり方だと考えています。このような「学びの構造転換」を実現することで、学校を教育の目的に立ち返った学びの場とするのです。
これからの学校教育において変えていくべきことの2点目と3点目は、「自分たちの学校は自分たちでつくる」「学校を、多様性がもっとごちゃまぜのラーニングセンターにする」なのですが、その2点については後編でお話しします。
(本記事の執筆者:神田 有希子)