幅広い領域で精力的に取材や執筆活動をされている、編集者・ライターの太田美由紀さんによる連載コラム「子どもと教員がいきいきと動きはじめる学校」です。
第6回からは、子ども同士のかかわりや数名での活動、学級全体のさまざまな子どもたちの関係性などに触れていきます。
※筆者プロフィールは末尾リンクから

ある学校で感じた「立ち歩く」という行動に対する違和感

本連載もようやく折り返しになりました。連載開始から第5回「その子に合う学び方」を探す までは、子ども一人ひとりがどのように学んでいるかに注目してお伝えしてきましたが、ここから数回は、子ども同士のかかわりや数名での活動、学級全体のさまざまな子どもたちの関係性などに触れていきます。

今回は授業中に「立ち歩く」ことについて考えていきたいと思います。私などは「授業中に立ち歩いてはいけません」と言われて育った世代ですが、ここ数年は学校の取材にうかがうと、子どもたちが授業中も自由に立ち歩いている姿をよく目にするようになりました。

「個別最適な学び」と「協働的な学び」というキーワードが登場して以来、学校でも学級でも、どうすればそれが実現するのだろうかと試行錯誤が進んでいます。ある小学校を訪れたときのこと、その時間は4年生の算数で自由進度学習をしていました。子どもたちはタブレットで自分に合った問題を解いています。大半は自分の席に座っていましたが、仲の良い友達のところに歩いて行ってチラリとタブレットをのぞき、また自分の席に帰ってくる子も数人いました。

自由な環境を保障しているようにも見えますが、私はその学校を訪れたとき、少し違和感を覚えていました。子どもたちは、「必要があって立ち歩いている」というより、「先生がいいというのでまあ歩いてみるか」という具合に見えました。先生にお話を聞くと、「どのように個別最適と協働的な学びを進めていけばよいのかなかなか難しく、先進的な学校に視察に行きました。とにかく何かやってみようと、授業中に立ち歩いてもいいことにしました」と教えてくださいました。

あの時の違和感は何だったのか。少していねいに考えてみたいと思います。
 

「立ち歩く」は、自ら情報を取りに行き世界に働きかけること

「立つ」「歩く」というのは人間の発達にとってとても重要な動作です。赤ちゃんは立つことで世界の見え方が変わります。歩けるようになることで早く移動できる手段を獲得するだけでなく、行動範囲が広がり、「探索行動」が盛んになります。

自分の周りがどうなっているかを知りたい、初めて見る人や物に近づいてもっとよく見てみたい、触ってみたいという好奇心が刺激されます。また、その欲求が満たされると、「もっと知りたい」という気持ちが生まれ、次の探索行動につながります。いくつかの学校を取材させていただいたとき、授業中に「立ち歩く」こともまた「探索行動」なのだと納得することが何度もありました。

ある先生は、端末が配備される何年も前から、授業中に立ち歩くことを推奨していました。授業中にわからないことがあればクラスの仲間を頼ってお互いをサポートしたり、他の人がどんなふうにノートを取っているかを参考にしたり、自分とは違う意見を聞いて対話を重ねたり——。そうしてさまざまな情報を集めては取捨選択し、対話から新しい考えを手にし、自分の考えを組み立てていくことが大事だと伝え、それを「座学」に対してオリジナルの言葉で「立学(りつがく)」と呼んでいました。

また別の学校のある先生の社会の授業では、単元に入る前に図書館支援員と相談し、参考になる資料や本を学級に持ち込んだり、社会科資料室の模造品などを教室の後ろの棚に並べたりしていました。各自でその単元の内容について調べる時間を数時間設けて、デジタル教科書やインターネットも駆使しながらその資料や模造品などを手に取ることができる環境をつくり、子どもたちは自由に歩き回りディスカッションもしながら活動を進めます。それをもとに、各自が調べたことをノートやタブレットにまとめていました。

「立ち歩く」ことは、自ら情報を取りに行くこと、自ら世界に働きかけることでもあります。受け身のままでは立ち歩くことは難しく、立ち歩くことで受け身のままではいられなくなります。自分とは違うノートのまとめ方、自分とは違う考え、新しい情報に出会ったとき、その何を選び、何を自分のものにして考えを組み立てるのかを考えざるを得ません。

最初は目的なく立ち歩きはじめたとしても、自分以外の新しい世界と偶然に出会うことは、何か新しい気づきを手にするチャンスにもなるのです。
 

行動を見たままに理解するのではなくその裏にあるものを見る

一方で、立ち歩いてはいるものの、何も探索していないように見える子の場合はどうでしょうか。数学の問題を解いているとき、ぐるぐると立ち歩く子がいました。みんなは座って集中して問題を解いていましたが、その子だけがあてもなく教室の中を歩き回っています。しばらくするとその子は自分の席に戻ってきて座り、ノートに何かを書きはじめました。

「ふつう」なら「立ち歩かないで、自分の席に座って」などと注意を受けるところですが、先生も子どもたちも特に興味を示さず、それぞれ自分が問題を解くことに集中しています。

先生は授業が終わった後、「あの子は動きながら考えることで良い考えが浮かぶようです」と教えてくださいました。実際、その子は、その日提示された難解な証明問題を解くことができた数人のうちの一人でした。

仕事でご一緒した際、脳科学者の茂木健一郎さんも「歩きながら考えたほうが思考が安定する」と話していました。このような特性は誰にでも当てはまるわけではないかもしれませんが、同じ姿勢で何時間も座ったままでは思考が回らなくなる経験は誰にもあるでしょう。行き詰まったときに立ち上がりのびをすることで改めて集中できるようになることも、散歩をしているときに新しいアイデアが浮かぶことも思い当たります。私自身も原稿執筆中は、行き詰まれば散歩に出かけます。

ここまで考えを進めると、冒頭にお話しした学校の取り組みは、素晴らしい一歩だったかもしれないと今になって思うのです。当時の私自身に、「何か目的があって立ち歩くのならよいが、目的もなく立ち歩くのはどうか」「先進的な学校の状況を形だけ取り入れても——」などというフィルターがあったことに気がつきます。

子どもたちが集中できるようになる、主体的な学習者に確実に変化する、といった確証が持てないとしても、試しに、「立ち歩いてもいい」と一つ縛りをなくしてみることで、子どもたちの行動が少し変わりはじめます。その様子を観察して、必要なアレンジを加えていくことはいくらでもできるのですから。

また、「立ち歩く」ことが全ての子どもたちにとって常によりよい方法であるとも限りません。前出の「立学」を推奨していた先生は、子どもたちのこんな声も教えてくださいました。

「私は『立学』を推奨してはいるのですが、中には、ずっと座ったまま一人で集中して調べたり考えたりしている子もいます。それについて『どう思う?』と子どもたちに聞くと、『人によっては座学の日があってもいいんじゃない?』と返ってくることもある。それを聞いて、私はほんのちょっと傷つきながら、なるほど、座学だって価値があるよね、と応えます。こうしてお互いの違いを認められる子どもたち、素晴らしいですよね」

自分のやり方を大切に尊重されている子どもたちは、相手のやり方を尊重し、大切にすることができるようになります。たとえそれが、自分のやり方とは少し違っても、です。ひとり静かに考えを深めたい子どもたちにとっては、歩き回る子どもたちが気になることもあるかもしれませんが、どうすればお互いを尊重しながらうまく折り合いをつけていくかを学ぶ機会にもなるはずです。

立ち歩くか歩かないかを考えるとき、一人ひとりが集中して自分なりの学びに向かえる環境をどうつくるべきかも子どもたちが教えてくれます。今の環境がその子にとってよいかどうかは誰よりも子ども自身がわかっていますし、それを言語化できない場合にも、その様子に立ち現れてくる。私たちが子どもたちに問われているのは、そのような学びの環境をどのように調整し、保障するかなのだと思い知らされます。
 

第7回 「学びたい」を止めない は、11月14日に公開予定です。
学びたくなる環境や、学びと社会とのつながりについて、考えます。

 

※本連載は、太田氏が学校取材を担当した以下書籍より再構成したものです。詳しい事例については書籍をご参照ください。

『学校とは何か 子どもの学びにとって一番大切なこと』(汐見稔幸 編著)
本体価格 1,000円(税別)、出版社 河出書房新社
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309631769/