幅広い領域で精力的に取材や執筆活動をされている、編集者・ライターの太田美由紀さんによる連載コラム「子どもと教員がいきいきと動きはじめる学校」です。
今回は、前回のテーマであった「立ち歩く」の先で出会う、主体的な学びが動き出す環境をもう少し詳しく見ていきましょう。
※筆者プロフィールは末尾リンクから

「学びを止めない」ではなく「学びたい」を止めない

第6回「立ち歩く」ことの意味でお伝えしたように、私たち人間は、「立ち歩く」などの探索活動によって、これまで知らなかったことに偶然出合う可能性が高まり、新たな「知りたい」「やってみたい」のきっかけを手にします。今回は、「立ち歩く」の先で出合う、主体的な学びが動き出す環境をもう少し詳しく見ていきましょう。

コロナ以降、「学びを止めない」というスローガンが使われるようになり、ICT化の推進にも一役買ってきました。当時、「学びを止めない」は「学習の進度を止めない」「学習の遅れを取り戻す」のような意味で使われることが多かったように思います。しかし、危惧されていたのは学習の遅れだけではありません。長期にわたって外出に制限がかかり、外遊びや体験の機会が激減していたことも問題でした。今なお、大きな影響が残っています。

この広い世界は、「予期せぬ偶然の出合い」に満ちています。書籍『学校とは何か』の取材では多くの先生の教室や授業の様子を拝見しましたが、子どもたちが未知のものや人に出会い、「なんだろう」「知りたい」「やってみたい」という、「学びたい」気持ちが動き出すような体験の機会に何度も立ち合うことになりました。

コロナを一つの契機として、前者の「学びを止めない」という視点は誰もが持つようになりましたが、それに加え、学校や家庭でも、子どもが本来持っている「学びたい」を止めないという後者の視点を持つことが、学びを保障する上での重要な要素なのだと私は考えています。
 

未知のものと出合い、自ら働きかけることで学びが動き出す

先日、あるひとりの子どもの探究の様子をじっくりと観察する機会があり、非常に驚かされました。その様子はまるで実験に集中する研究者か哲学者のように見えたのです。私は月に数回、子育てコーディネーターとして都内のある子育て相談室にも入っているのですが、これは、相談室の横にある子育てひろばでのできごとです。

彼は1歳2か月。ひとりで歩けるようになったばかりです。さまざまなおもちゃが置かれているひろばをよちよちと歩きながら、気になったおもちゃを見つけると、その前で座り込み、ひとしきり遊んではまた別のおもちゃへと移動しています。「家のおもちゃは飽きてしまったので、新しいおもちゃがあるこのひろばに来るととても楽しそうです」とお母さん。

中でも30分ほど集中して遊んでいたのは、ソフトクリームのおもちゃです。上のクリームの部分と下のコーンの部分が分かれるプラスチック製のものでした。右手と左手にそれぞれを持ち、何度もつけたり外したりしていましたが、ある時コーンを落として持ち方が変わると、コーンを持つ自分の指が邪魔になり、それまでのようにはまらなくなりました。

「あれ、おかしいな? さっきまでできたのに」とでもいうような顔をして、何度か試すうちに、彼は、自分の指が邪魔なことに気がつきました。今度はコーンを置いてはめようとしますが、コーンを床に置こうとしても、先が尖っているので立てることはできず、すぐに倒れてしまいます。お母さんがコーンを持ってあげようと手を伸ばすと、その子は首を振って、自分でやりたいと全身で伝えます。

近くにあったおままごとのコップを自分で見つけ、そこにコーンを立て、見事にクリームを載せたときには、満面の笑みでお母さんを見ていました。今度はそのコップに直接クリームをはめてみると、偶然にもサイズがピッタリで、再び満面の笑みに。そこで火がついたのか、おままごとの野菜を次々にコーンに刺してピッタリとはまるものを探し続けていました。

お母さんはその後、手も口も出さず見守っていました。その子がお母さんの顔を見たときは、「うわあ、はまったね!」と声をかけていましたが、あとは使えそうな形のおもちゃをそっと彼の近くに置くだけです。彼は、諦めることなく何度も試行錯誤を繰り返しながら、「同じ」や「違う」、「円すいを逆に立てることはできない」「球体は転がる」、など物理的な法則を体得しているように見えました。

このような体験が蓄積されることで、のちに言語化や抽象化ができるようになったとき、その体験と知識が確かに紐づいていくのですが、この子どもの様子は、学校取材で教えていただいたこととも深くリンクしているようにも見えました。
 

教室という限られた環境をどう突破するのか

では、学校の教室という限られた環境の中で、子どもたちはどのように未知のものや新しい世界に出合うのでしょうか。多くの場合、それは教科書や資料集に書いてある文章や写真、先生の話などに限られてしまいます。最近はタブレットで動画やインターネットを見ることもできるかもしれません。しかし、限られた空間や時間の中では、自分で何かを選び取ることも、納得がいくまで試し続けることも難しいでしょう。そこをどう保障するか、が「学びたい」を止めないということなのだと思います。

学校に通う子どもたちもまた、1歳の子どもと同様に、もしくはそれ以上に、見慣れたものや限られた空間だけでは飽き足りません。乳幼児が自分の家を出て子育てひろばや公園に出かけたときのように、新しい世界と出合う状況をどうつくるのか。そう考えてみると、意外と簡単なことのようにも思えます。

取材させていただいた多くの学校では、さまざまな工夫がありました。本連載の第6回で紹介した社会の授業のように、その単元に関係する書籍や社会科資料室の模造品などをたくさん用意し、教室に配置して自由に手に取れるようにしていた学級もありましたし、また別の学校では、算数の立体の学習の際に教室を飛び出し、学校の中でその立体と同じ形を探してタブレットで撮影をして集め、みんなでその立体を検証するという授業を行なっていました。

教室の中に、いつもはない目新しいものや、家庭ではなかなか出合うチャンスがないものをいくつも持ち込むことで、「なんだろう」「知りたい」「やってみたい」という気持ちが生まれます。学級を飛び出し、学校全体にフィールドを広げて子どもたちが発見する授業では、宝探しのような新鮮な気持ちで立体を探すことができます。
 

偶然の出会いや、予想していなかった展開が起こると、子どもたちの「学びたい」は加速していきます。自分とは違う考え方、受け取り方をする他者が学級にはたくさんいますし、違う学年の子どもたちとの交流もまた新しい出会いです。自分とは違う考えややり方を試す友達を横目に、自分で考え、自分で動き、自分で選び、自分なりに納得のいくまで試し続けることができれば、そして、行き詰まったときも、見守り、相談できる先生や大人が近くにいれば、本来、「学びたい」は止まらないのかもしれません。

子どもたちが教室を飛び出すだけでなく、保護者や地域の人に学校に来ていただき、さまざまな職業について話を聞くなど、人との出会いによって新しい世界に触れる機会を確保している学校もあります。地域に暮らす外国にルーツのある人と一緒にその国の食文化を体験する学校もありました。ときには1年がかりのプロジェクトとして学校を何十時間も飛び出して、その地域の農家やお店との協働で小麦を収穫しパンを作るというプロジェクト学習を進めていた公立の学校もありました。

また、自然は予期せぬ偶然の出会いに満ちています。あるフリースクールでは、自然の中で自由に過ごせる環境を保障する中で、子どもたちが元来持っていたはずの「学びたい」を自ら取り戻していく実践を見せていただきました。

偶然の出会いをきっかけに試行錯誤が始まり、ときには失敗し、驚き、発見する喜びを感じる。ときに躍動的な、ときに胆力のいる体験を、限られた環境の学校や家庭でどう保障するのか。その視点を持つだけで授業のデザインの方向性は大きく変わります。そしてそれがまた、先生自身の「学びたい」が動き出すきっかけにもつながっていくのだと、ある先生が教えてくださいました。

先日出会った1歳の赤ちゃんとそのお母さんの様子もまた、その本質を私に教えてくれたような気がしています。
 

第8回 子どもが「学びの主体」になっているか? は、11月28日に公開予定です。
探究学習の際に、本当に子どもが「学びの主体」になっているかについて考えます。

 

※本連載は、太田氏が学校取材を担当した以下書籍より再構成したものです。詳しい事例については書籍をご参照ください。

『学校とは何か 子どもの学びにとって一番大切なこと』(汐見稔幸 編著)
本体価格 1,000円(税別)、出版社 河出書房新社
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309631769/