取材・文/太田美由紀 ※筆者プロフィールは末尾リンクから
撮影/武内太郎

ー 本シリーズにこめた思い -----------------ーーーーー
社会の多様化・多層化のなか、一人ひとりの学びや成長の質をいかに保障していくのかがますます重要になっています。そのためには地域性や個人の発達特性の違いなど、さまざまに考慮すべきことも見えてきています。ただ、課題の原因も複雑化していて、学校だけ、家庭だけでは対応が難しいことや、従来の制度や発想だけに頼っては行き詰ってしまう事象も増えています。
そこで、学校を起点にして、先進的な取り組みで課題を解決しようとチャレンジしている事例から、これからの教育を考えていきます。
(企画・ベネッセ教育総合研究所 石坂 貴明)
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学校における働き方改革を進めてはいるものの、教員不足は深刻化しています。2024年10月、欠員数は4700人を超えて過去最多となり、新年度の2025年5月になっても、未配置は3600人を超えたまま(全日本教職員組合による調査より)。産休・育休や病気休職の代替者は見つからず、新たな教員志望者も減少して先が見えぬ中、働く環境として学校をどのように改善していけばいいのでしょうか。

今回は、組織開発コンサルタントの勅使川原真衣さんにお話をうかがいました。勅使川原真衣さんは、企業をはじめ病院、学校などの組織開発を支援する一方、著作家として企業や教育現場における「評価」や「能力主義」のあり方に疑問を投げかけ、誰もが安心して“自分らしく働ける”環境づくりを提案しています。

 

1982年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学卒業、東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。外資系コンサルティングファーム勤務を経て、2017年に組織開発を専門とする、おのみず株式会社を設立。二児の母。2020年から乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)、『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社新書)、『職場で傷つく』(大和書房)、『学歴社会は誰のため』(PHP新書)、編著書に『「これくらいできないと困るのはきみだよ」? 』(東洋館出版社)など多数。教育専門誌『教職研修』(教育開発研究所)で「みんなの職員室」好評連載中。

 
初めての著書『「能力」の生きづらさをほぐす』は、教員からの反響が大きく、刊行した2022年末以降、全国各地で教員による読書会が少しずつ広がったほどです。続いて昨年出版された『働くということ 「能力主義」を超えて』は新書大賞2025の5位となり、ビジネス界のみならず、教育現場や医療福祉障害者支援の現場にも共感が広がりました。

「教師力が足りない」「指導力が足りない」「リーダーシップがない」などと評価され、教員が追い込まれていく。評価する管理職自身も然り。その構造自体に疑問を呈した勅使川原さんの言葉は、現場で働く教員にダイレクトに響きました。組織としての学校、教員自身の苦しみや子どもたちの環境について、勅使川原さんはどのように捉えているのでしょうか。
 

能力主義という“見えない靴”を我慢して履いている

——教員から「子どもを評価し、成績をつけながらも、自分自身もまた評価され続けることが苦しい」といった声が聞かれることがあります。能力主義という構造が、いまの社会や学校にどのような影響を与えているとお考えですか?

能力主義はよいこともした、ということについてまずお話ししましょう。能力主義は、近代社会の成立過程で生まれた社会配分原理としてつくられた構造です。身分制社会から移行する際、「世襲」つまり「生まれ」によって人生が決められるのではなく、個人の「能力」によって評価されるべきだとされました。

努力して働けばその分だけ分け前をもらえるという能力主義が登場した当初、それは人々にとっての希望でした。生まれや家柄にかかわらず、努力によって、“ワンチャン”、人生を切り拓ける可能性が初めて生まれたわけです。おそらくそれは、必要であり喜ばれることでした。

しかし、それから200年近く経ったいまも、私たちは「努力すれば報われる」「実力で勝負すべきだ」という物語に閉じ込められている。そして、その構造の中で命を落とす人がいる。ここを見過ごしてはいけないと思います。

実際には、「能力」は目に見えません。定義自体が曖昧でありながら、それが選別や分配の正当性を担保する根拠として使われてきました。例えば「自分は頭がいいからこれだけの報酬を得て当然だ」と語る際、それを裏付ける客観的な基準はほとんどなく、むしろ、勝てる人はより勝つ、負けっぱなしの人は命までも取られてしまう。それは権力にとって非常に便利な“つくられたロジック”でもあるのです。

“親ガチャ”という言葉が生まれる背景にも能力主義がある。能力主義は自己責任論と結びつきやすく、例えば、経済的に困難な家庭の子どもや、家族のケアを担うヤングケアラーで進学や通学が難しいなど、背景に家庭の事情があって高校に進学できないとしても、子どもたちは「努力が足りない」「自己責任だ」と切り捨てられています。私たちの人生は偶然と環境によって大きく左右されているのに、「それも含めて能力の差だ」とされてしまう。
 

——教員不足やメンタルの不調も、そうした構造と無関係ではないように思います。

能力主義は、「人を選抜してダメな人をどんどん捨てていく」仕組みです。精鋭化していくわけですから、高度経済成長のような人が増えている時代には必要だったかもしれませんが、いまはもう競争している場合ではありません。

いま、学校も本当に厳しい状況ですよね。担任の先生が1年で4回も交代するという事例もある。校長先生や副校長が授業をすることも日常的に起きています。これは単なる人手不足の問題ではなく、精鋭化していく能力主義が続いてきた結果です。本来なら、社会全体で協働し支え合うことが必要な時代に入っているはずなのに、能力主義が、社会の進化に対して逆行する“足かせ”になっているのではないかと危惧しています。
 

 
——一方で、厳しい競争を勝ち抜いてきた世代は、子どもたちに対して「不利になってほしくない」という思いを持つのも自然ですよね。

本当に。子どもを思うからこそ「これくらいできないと困るのは君だよ」という言葉が学校や家庭で使われることがあります。私自身も、つい子どもに言ってしまいます。

例えば、夏休みの宿題が終わっていないのに始業式前夜にTikTokを見ている姿を目にすれば、「お母さんはいいけど、困るのはあなただからね」と言ってしまう(笑)。言いながら自分でも気持ちが悪いし、これは脅しだなと思うけど、心配なんですよ。

おそらく先生方も似たような思いを抱えていらっしゃるのではないでしょうか。「この子の将来のために、いま厳しく言っておかないと」と思えば思うほど、評価や管理の構造に巻き込まれ、自分自身の心が少しずつ削られていく。

小学校に講演や研修でうかがうと、先生方からこんな質問をいただきます。「とても共感するが、小学校で能力主義を脱しても、中学、高校ではどうなるんでしょうか」と。中学校に行けば、「うちは高校受験があります」。高校に行けば「大学、就職が心配です」。能力主義はおかしいと誰もが薄々気づいているのに、社会の論理だからどうにもならないと思わされています。
 

——教育現場もまた、その能力主義的な「空気」にしばられているのですね。

まさに日本社会における能力主義は、明確な指標を失って曖昧化して、さらに個人の内面にまで入り込んでいます。かつてのような学力偏重ではなくなってきた一方、「人間力」「コミュニケーション力」「リーダーシップ」など、定義が曖昧な能力ばかりが求められるようになっている。そのことが、かえって格差や排除を強化しているようにも感じます。

企業の採用現場で、「カルチャーフィット(企業の文化や理念に合致しているか)」や「チャーム(魅力)」の有無が合否を左右するような場面を見てきましたが、それは客観的な評価とは程遠く、実態は単なる“好き嫌い”の問題であることも少なくありません。それでも「能力」という言葉で覆い隠されることで、差別や排除が正当化されてしまう。

教育は社会と地続きですから、能力主義を見直さないかぎり、学校だけが変わることは難しい。とはいえ、このままでは先生も子どもも疲弊し続けてしまいます。能力主義は、例えるなら、よくわからないまま誰かに履かされた “見えない靴”です。でももう靴擦れをして痛いし、苦しい。その靴を我慢していつまで履き続けるのか。そろそろみんな、その靴を脱いでもいいと思うのです。
 

組織に必要なのは「万能さ」ではなく「機能」

——「教育と社会、どちらから変えるべきか」という問いがあります。鶏が先か卵が先かということですが、どうお考えですか?

教育の出口が社会だとすると、社会や企業が変わるほうが影響力が大きいと私は考えています。学校の中で何か素晴らしい取り組みが行われたとしても、その出口である企業が「これは学校の中だけで通用する話」と思っていたら、子どもたちは卒業してからその価値を感じられないまま、社会の中でまた評価され続ける。私は、学校ももちろん変えていく必要があるけれど、「企業の側がどう変わるのか」「どうしたら変わるのか」を考えることのほうに、より関心があります。
 

——実際に企業は変化しているのでしょうか。

皆さんのところに届くのは大企業の情報が多いかもしれません。ただ、大企業は困っていません。安定を求める学生は大企業を目指しますから、人材は選びたい放題です。能力主義をもとに、企業が求めるパーフェクトな人材を選抜しています。ただ、入社してからも能力主義の中で精鋭化していくわけですから、非常に厳しい世界だと思います。

一方で、困っているのは中小企業です。日本では中小企業が企業全体数の99.7%、従業員数も約7割を占めています(2024年中小企業白書)。多くの子どもたちが将来中小企業で働くことになるわけです。

ところが、中小零細企業は大企業を目指すところが多く、大企業を真似して組織を運営してきたのですが、それでは人がどんどん辞めてしまう。精神疾患による休職も多い。採用するための人材も見つからない。そこで、どうすればいいだろうかと相談をいただきます。

辞める人が多い企業の多くは、能力主義的に一つの正しさでしばられていることが多い。人は、「ここは自分のいる場所じゃない」と感じて辞めていきます。大企業だと人が辞めても成り立ちますからあまり変わろうとしない傾向がありますが、社員数が数十人の中小企業で何か問題が起きたり、誰かが辞めてしまったりすると、体力がギリギリですから本当に回らなくなる。だからこそ「変わらなければ」という“切実さ”がある気がします。
 

——学校もある意味、中小企業の状況に置き換えられそうですね。教員の皆さんが勅使川原さんの著作に共感するのもよくわかります。

先生方は大学を卒業後、20代の頃から本当に大変な環境のもとで働いてこられたと想像しています。先生となった瞬間から先生として全てを知っている人のように振る舞わなければなりませんし、ソーシャルワーカーであり、心理カウンセラーであり、ときには弁護士のような役割まで背負わされてきた。でも、全てをパーフェクトにできなくて当然だと思うのです。

企業の組織開発でも、最初に話すのは「誰にでも必ず『持ち味』、発揮しやすい『機能』がある」ということです。全てをまんべんなくこなせる人なんていません。人によって強みやできることは違うし、その持ち味の「違い」が組織の面白さをつくるのです。

先生一人ひとりに完璧な「能力」が必要なのではなく、学校運営上必要な「機能」をまず明らかにして、誰と誰の組み合わせで担い合えば、一人ひとりの生まれながらに持っている「機能」が発揮しやすいかを考えることが必要なのだと思います。
 

——「機能」とは例えばどんなことですか?

例えば、アクセルを踏みやすい人とブレーキをかけやすい人がいるとします。いろんなアイデアを思いつき、「すぐにやってみましょう」とアクセルを踏んで旗を振る人だけで動くと、いろんな問題が出てくることがあるかもしれません。そこに、ブレーキの資質を持ち合わせている人を組み合わせることで、「もう一度この懸念点を検討しましょう」と、慎重にリスクマネジメントができますよね。

私はよくレゴブロックに例えるのですが、一つのピースだけで完璧に全てを体現できるパーフェクトなブロックはありません。形も大きさも色も違うブロックを、どう組み合わせるか。それによって、同じ部品でも全く違うものを組み立てることができる。

誰かが全てを一身に背負う必要はありません。ブロックで船をつくるときには、小さな船の形の一つのブロックで完結するよりも、旗の形や平らなブロック、丸みのあるブロックなど、さまざまなブロックを組み合わせることで、より大きくかっこいい、思い通りの船が出来上がります。

学校でも、先生一人ひとりが持っている「機能」やそれぞれの「味」を組み合わせることが必要なのだと思います。
 

 
——ブロックの組み合わせをイメージするととてもわかりやすいですね。そのほうがお互いのよさを活かしやすい。「味」の組み合わせと考えるのも面白そうです。

「味」は評価できませんよね。すっぱい味がよくて、辛いのや甘いのはダメということはありません。それぞれの「味」を組み合わせながら、よりその「味」が生きる組み合わせを考えるわけです。混ぜ合わせるとより深みが出ることもありますし、ときに、混ぜてしまうと美味しくないものや、危険なものもあります。水と油は混じり合わないということもありますから注意は必要です。

ですから、逆に、うまくいかないときは、「味」の組み合わせが良くなかったんだなと考える。そうすれば、「あの人が悪い」とか「なんでわかってくれないんだ」と攻撃し合うことにはなりません。

企業でこの考え方を実践すると、人が辞めなくなりますし、製造業などでは若手からアイデアが出るようになり、新製品が生まれることも増えていきます。
 

子どもの言動を「面白がる」ことができているか

——これまでにご覧になった教育現場でそのような実践をしている例はありますか?

ある公立小学校の先生の授業を見学して、一人ひとりをよく見て合理的環境調整をされているなとおどろいたことがあります。

私が子どもの頃、学校では空気を読んで気がきく子、先生の顔色を見て動ける子が評価されたり重宝されたりすることがよくありました。つまり、先生がやってほしいことを先回りしてできる子です。そうすると、その子一人に仕事が集まってしまう。先生もきっと職員室の中でそのような環境にあると思います。

でもそのクラスでは、善し悪しをつけずにそのままのその子をよく見ていらっしゃいました。例えば、私がうかがった日、授業中に寝そべっている子がいました。外から見学に来た私のような人がいるのに寝そべっているということは、多分いつも寝そべっているんですよね(笑)。

その先生は、「なんで寝てるんだ」「いつになったらやるんだ」でもなく、「近いからカーテン閉めてくれる?」とその子に自然にお願いしていました。「できる子」「空気を読める子」だけが活躍して、ルールを守れない子は叱られる、無視されるのではなく、全ての子が何かしらの「機能」として存在できる教室でした。
 

——なかなか意図してできることではないかもしれないですね。これを一つ許してしまうと、子どもたちをコントロールできなくなるんじゃないか、と考える先生も多い。

そういう一瞬の戸惑いや、大人の葛藤も子どもたちに伝えてもいいと思うんですよね。思っていることと違うことを言っていたり、言葉でコントロールしようとしたりしても、先生が生身の人間としてそこにいるかどうかは子どももすぐにわかります。その先生は、大前提として子どもたちのことをとても面白がっていました。
 

 
「自分が大事にしているものを持ってきて自己紹介する」という授業の準備では、「家族を連れて来たい」「スイッチ(ゲーム機)でもいいですか」などいろいろな意見が出ましたが、どんな意見も本気で面白がっていました。子どもの言動を「面白い」「なるほど〜」「そうきたか」という視点で先生が楽しんでいると、授業に参加させるために頑張らなくても、子どもたちが授業に参加したくて仕方がなくなるんですね。「ここではこういう答えが求められているのだろう」と子どもたちが察する必要がない環境が整えられているからだと思います。

子どもたちには、あのクラスのように、「自分が考えたことや自分の思いを言っても大丈夫だった」という経験をしてほしい。あの教室で、こんなこと言っても平気だった、自分のことを話したら受け止めてもらえた、という経験。評価されるために発言するのではなく、話すこと自体が歓迎される場。そういう経験が、その子の中にずっと残っていくことが何より大事だと思うのです。
 

「私たち本当にすごい仕事をよくやっているよね」と言い合うところから

教員も同じで、言動について評価されてしまうと、何かをすることが怖くなります。ほめることも評価につながりますから、「ほめる」より「面白がる」じゃないかと思います。子どもたちって見ていると面白いですよね。それを面白がれない先生がいるとしたら、やはり職場の能力主義で自分自身が苦しんでいるとか、余裕がないというサインなのかもしれません。
 

——親としても社会人としても、同じことが言えそうですね。何かしら評価される状況にいると、子育てや仕事を「面白がる」余裕がどんどんなくなっていきます。そのような状況に陥っている職場の場合、突破口に難しさがあると思います。

企業の場合、“ワンオンワン(1on1)”といって、上司と部下が定期的に1対1で話す面談のような場があるのですが、よくお伝えするのは、「私にはこう見えている」という表現を使って話しましょうということです。

「あなたのやり方は間違っている」「あなたはこの点が足りない」などと指摘したり攻撃したりするのではなく、まず相手を承認してから、「私からはこういう場面でこんなふうに見えていました」と伝えるところから対話を始めるように変えていきます。

「よくやってくれて助かってるよ」
「全部自分ができるわけじゃないから、マジで助かるわ。でもさ、ごめんね、この間のあれは僕の目からこんなふうに見えたんだけど、どうかな?」
「私はこんなふうに見えているんですけど、まだ見えてないところもあると思うので、教えてほしいんです」

上司からも部下からもそんな話し方ができるようになってくると、その後の話し合いが大きく変わります。学校の授業研究などでも同じだと思います。「ここができてなかった」「もっとこうしたほうがいい」などのダメ出しや評価の前に承認が必要です。

先生は教える側ですから、正解がある前提から始まるという面もあると思うのですが、それこそが限界をつくっている。誰も答えを持っていない、正解はないという前提で話し合ってみると、ずいぶん変わるはずです。

「あなたがそう思うのはよくわかるよ」と誰かが言ってくれると、それだけで救われる。大事なのは、誰かが正しいことを言うことじゃなくて、その人の見えている世界に耳を傾けることだと思います。
 

——承認される場があってこそ、人は安心して「じゃあ次はこうしてみよう」と動き出せるのかもしれませんね。

子どもたちは社会に「適応する」ことが大事だと思われていることが多いのですが、「抵抗する」という選択肢も持っていてほしい。全部に逆らうということではなく、自分で考えて、自分の生き方を選んでいけるといいなと思うのです。

学校もまだまだ能力主義的にしなければならない場面もあるかもしれません。成績をつけることを全ての学校がやめるということは無理でも、学活や休み時間など、痛みのないところから小さく始めることでずいぶん変わっていくはずです。

社会も一気に変わりませんから、我が子をはじめ、子どもたちには能力主義のからくりは伝え続けなければとも思います。例えばあまり言語化が得意ではなく絵を描くことが好きな子なら、「うまいこと言える人が勝ちやすい世の中かもしれないよね。でも自分で選べるんだよ。勝ちたいならそうしたほうがいいかもしれないし、自分はそうじゃないと思ったら、絵を描き続けたらいいよね」と。
 

 
世界は複雑化しすぎて、企業はすでに正解はないことを体験的に思い知らされています。経験や年齢だけではどうにもならない。学校はどうでしょうか。学校も、究極的には学校に行かなくても知識の獲得ができる時代になりました。私たちはどうして学校に行くのだろうと考えたとき、学校は子どもたちを序列化して傷つける場ではないはずです。

教育の役割はやっぱり大きい。学校って、家庭以外で子どもたちの存在を承認できる初めての場ですよね。「どんなあなたであれ、何ができようと何ができなかろうと好きだよ」と子どもたちに伝えられる場です。

いま先生であるとしたら、いま先生を目指しているとしたら、それだけで、「私たち本当にすごい仕事をよくやっているよね」と言い合える仕事だと思います。

先生たちは、「みんな元気によく学校に来たね」と子どもたちに伝える場面があると思います。先生自身も、ぜひお互いに、「よく来たね先生。(憂鬱だったり、しんどかったりしたのに)本当によく来たね」と伝え合ってください。

嘘をつかないことも大事です。「人間全て、ほころびがある」という前提がそのためには必要で、みんな未熟で、未熟上等なのです。しんどいときもあるし頭に来ることもある。そういうことも含めて、先生同士で話してみることから始めていただけるとうれしいです。