今、学校には、「主体的・対話的で深い学び」の視点からの授業改善が求められており、児童・生徒が授業中に対話をする機会が多く設けられるようになりました。私は、専門である哲学を大学において対話形式で教えつつ、市民誰もが無料で参加することができ、テーマもその場で決めて対話する「ソクラテス・サンバ・カフェ」という哲学カフェを大学の同じ研究科の教員とともに主催・運営し続けています。今回は、誤解されることも少なくない「対話」の意味や意義、学校における実践のポイントについて、私自身の経験や実践を基にお話しします。
対話と議論の違いとは何か
皆さんは、「対話」と「議論」の違いをご存じですか? 対話とは議論することだと思われがちですが、両者は異なるものです。議論とは、自分や相手の意見をぶつけ合って、何が正しいのか、どうすればよいのかといった「正解」を探していくものです。一方、対話とは、それぞれが考えている正解を持ち寄り、それを聴き合い、一緒に考えていくものです。その過程で、自分が正解だと思っていたことについて考えが変わったり、新たな気づきを得たりすることで、自分の世界を広げていけるのが対話なのです。そして、相手との応答的なやり取りや、相手の本音を聞くことなどを通して、参加者がともに、新しい景色が見えてきた、明日が少しでも楽しくなりそうだ、自分の気持ちが楽になったと感じられることが、対話のもたらす最大の効用です。
近年、学校教育において対話が重視されている背景には、社会からの要請があります。年齢や肩書などの属性に関係なく、皆で問題を解決していく強い関係性や、周囲の人から教わるのではなく自分なりの正解を持つことが、これからの社会を生きていくためには求められているのです。
OECDは、子どもたちが変革を起こすためには、子どもたち自身が対話を通して自分たちの目標を設定し、振り返りながら、責任ある行動を取る能力(「生徒エージェンシー」)を発揮することが求められると、主体性の重要性を強調しています。学校は、教師を始めとする大人が一方的につくり、運営するものではなく、生徒が主体となって大人と一緒につくり、対話しつつ協力して運営していくものであるとも述べており、教育における対話の重要性は世界の共通認識であると言えるでしょう。
授業では、正解に「たどり着く」ための対話ではなく、正解から「出発する」対話を
私が主催者の1人として行っている哲学カフェでは、飲み物を片手に、あるテーマについて話し、聞き、考えるという対話のプロセスそのものを楽しみます。参加者それぞれがモヤモヤしていることや悩み、思いなどを持ち寄り、それらを基に対話していきます。学校の授業で対話を取り入れる場合も、基本的な考え方は同じです。よく誤解されるのですが、正解が決まっている問題を話し合いで考えさせるのは対話ではありません。対話は、新しい答えを皆で発見し、作り上げていくためのものです。教科書に書かれている正解を「出発点」として、皆がその知識を使い、対話を通して新しい発見をしていくプロセスこそが学びなのです。使う過程で結果的に教科書の知識は身につきますが、そこから派生した視点や考え方は生徒によって違うため、そのズレを利用して対話を起こしていくイメージです。
例えば、フランス革命について学ぶ場合、教科書には1789年に革命が始まったと書かれており、その知識は習得事項の1つとされています。ところが、フランス革命がいつ終わったのかは学問的にも決定されていないのです。そこで、フランス革命の意義や関連人物の動き、時代背景などの様々な知識を皆で教科書から探し出しながら、革命がいつ終わったのかを対話を通して考えていくのです。対話を通じて、自分とは異なる歴史の見方を知ることや、新たな興味・関心につながります。もちろん、関連する知識の理解も深まります。真の対話とは、参加者全員で行う知的冒険の旅でもあるのです。
ここで想定される疑問は、「必要な知識を事前に習得させておかないと、対話はできないのではないか」というものです。しかし、知識の習得そのものをゴールとした時間は不要です。私たちが幼児の頃から日常生活で日本語を使いながら上達させてきたように、何らかの目的を達成するために使うからこそ知識が「身につく」のです。危険が伴う場合は別ですが、それ以外の知識は実際に使ってみることで学ぶのが一番です。ある進学校で、対話を用いた探究型の授業をした教師のクラスと、一斉型の講義中心の授業をした教師のクラスの定期考査の平均点を比較したところ、対話を用いた授業を受けたクラスの方が格段に高かったという調査結果があります。同様の調査研究結果は、国内外で多数報告されています。
ちなみに、学校教育で対話を取り入れるとしたら、教科の授業よりも探究の授業の方が適していると思われがちですが、むしろテーマが生徒ごとに異なる探究の授業の場合、対話をするつもりが互いの相談で終わってしまうことが少なくありません。その点、教科の授業は、扱うテーマがある程度の範囲に固定されるので意見を交わしやすく、対話を取り入れるのに適していると言えます。
教師が対話的になっているか
対話的な教育活動を行うためには、教師自身が対話的であることが土台となります。今の先生方は忙しく、表面的な雑談はあっても、自分の意見や思いをお互いに素直に言い合える対話の時間を持てていないことが多いと思います。もしそうだとしたら、説得力を持って生徒に対話を促すことは難しいでしょう。多忙で対話する時間がないといった声も聞きますが、改めて考えてみていただきたいのです。学習指導要領で求められている「主体的・対話的で深い学び」が、目の前の児童・生徒にとって本当に必要なものと捉えているのか、それとも国から強制されているものなのか。まずは、「主体的・対話的で深い学び」とは何かを、教師同士で対話してみることから始めてみてはいかがでしょうか。
教師同士での対話推進の鍵を握るのは校長です。私が継続的に研修でかかわっている学校は、当初は教師間での対話が皆無でした。しかし、校長先生の強い意思と行動力の下、「苦手な仕事」や「なくてもよいと思う仕事」をテーマに対話の時間を設けました。具体的には、まず、大きなポストイットにそれぞれが意見を書いて見える化をしました。それぞれ悩みを抱えていたのだという共感が生まれ、似た意見などをまとめることで対話もしやすくなります。どうすればより快適な職場になるのかを対話していった結果、2か月後には学校が変わり始めました。自分たちで学校を変えられる体験ができたことで、先生方に、学校を主体的に支えるプレイヤーとしての自覚が生まれました。職員室の雰囲気もどんどんよくなっていきました。
対話は知的な営みです。対話を重ねるほど皆が知の階段を上り、その過程で、どのような意見でも尊重し合える強い信頼関係が築かれていきます。子どもたちにとって、学校においてそうした経験を積むことが、進学後や社会に出てからの成長の礎となります。教育活動に対話を取り入れる第一歩として、先生方の中でまずは対話を実践し、その効果を実感いただきたいと思います。
(本記事の執筆者:神田 有希子)
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