前回は、対話が重視されるようになった背景や、学校教育における対話の取り入れ方などについてお話ししました。今回は、私が対話の大切さを実感したきっかけや、対話をよりよいものにするためのヒント、そしてそれらから派生して、保護者の方が家庭で子どもとどのように向き合えばよいかなどについてお話しします。

身をもって対話の意義を知った留学時代

私自身が対話の効用や大切さを実感したのは、大学院時代にドイツに留学した時のことです。それまでの私は、講義をひたすら聞いて真面目にノートを取るだけの授業が苦痛だとは思いつつも、自分をごまかしながらやり過ごしてきました。留学先のドイツでも同様に過ごしていましたが、ある日のディスカッションで私の意見を求められました。その時、クラスメートの1人が、「サチコは自分の考えを言わないから、話を振っても無駄だよ」と言ったのです。ショックでしたが、言い返せませんでした。講義やディスカッションの内容は理解できていても、それに対する自分の意見を持っておらず、発言もほとんどしていなかったからです。それ以来、稚拙でも自分の意見を表現するように努力しました。真っ向から別の意見を述べられ、打ちのめされた気持ちになったことは数知れません。しかし、別の意見をぶつけられることは、相手が私の話に耳を傾けてくれた証です。自分が真剣にボールを投げさえすれば、それがどんなボールでも、相手は真剣に投げ返してくれると、安心感や快感を覚えるようになりました。また、積極的に対話の輪に入っていくことで、皆がプレイヤーとしてともに知の階段を上っていく一体感やその楽しさを味わうこともできました。

帰国後も、ドイツ時代と同様の態度で授業に臨んだところ、それまではつまらなかった授業が楽しく感じられるようになりました。気づけば、誰よりも私が多く発言し、周囲を巻き込んで話し合い、聞き合うようになっていたのです。その経験が、現在も続けている哲学カフェ(前回参照)や対話形式の講義の原点となっています。

かなテラス(神奈川県立かながわ男女共同参画センター)から依頼を受けて行った哲学カフェの様子。女性の社会参画をテーマとして、同センターが主催するセミナーの受講生が参加した。

写真提供:かなテラス

参加者全員が対話のプレイヤーになるためのポイント

対話の場で大切なことは、参加者全員がプレイヤーになることです。プレイヤーとは、自分なりの考えをしっかりと表現する人です。とは言え、ただ話せば良いというものではありません。たとえ発言はしなくても、参加者の話を主体的に聞き、思考を働かせて、自分なりの考えを持とうとしている人も含まれます。

学校教育で対話を取り入れる場合に、全員がプレイヤーである状態をつくる役割を担うのは教師です。実践のポイントは3つあります。

1つめは、「空間づくり」です。人間は目から入る情報に左右されます。机が教壇と黒板に向かって一方向に並んでいる空間、椅子が輪のように並んでいる空間、いくつかの机が向かい合わせになっている空間……。教師と生徒の関係性や、そこで展開される授業イメージは、それぞれの空間で異なるはずです。実現したい対話を促す空間づくり(アフォーダンス)を工夫しましょう。

2つめは、「対立を前提とする」です。対話には対立が不可欠です。違う意見を持つことは相手の人格を否定することではなく、真剣に相手と向き合うことです。自分の意見をきちんと聞いてもらえる、理解してもらえるという安心感があれば、たとえ自分の意見が人と違っても、安心・安全だと感じられるのです。しかし日本人は、対立することを恐れ、相手との違いが明らかになることを嫌がる傾向があります。そのため、考えの違いがソフトに伝わるような工夫を凝らしましょう。例えば、付箋やチャット機能などを活用して自分の考えを文字で表現するのは、対面で発言するより気が楽ですし、互いの違いも客観的に捉えられます。あるいは、初めにテーマに関する意見を「はい」と「いいえ」の二択式で答えさせ、意図的に対立の構図をつくった上で、そう思う理由をそれぞれ聞き合うようにすると、気後れせずに意見を言いやすくなります。

3つめは、「公告」です。皆が思ってもいなかったようなことを誰かが発言した際に、教師が、「それは間違いではなく、別の意見・別の見方である」と認め、そうした異論こそが場を刺激し、新しい気づきをもたらすことを全員に伝えるのです。教師には、全体を見渡す視点を持ち、参加者それぞれの発言を価値づける役割が期待されます。回を重ねるごとに、そこではどのような発言も尊重されるという安心感が生徒の間に生まれ、場がより活性化するでしょう。

家庭では、子どもに「無関心」なくらいがちょうどよい

家庭では、学校とは異なる、親子関係ならではの子どもとの向き合い方があります。お勧めしたいのは、保護者は子どもに対してもっと「無関心」になることです。と言っても、子どもの様子を全く気にしないとか、子どもの話に耳を貸さないといった意味ではありません。「その人がどうあってもよい」と、相手を相手のままに理解するということです。

「関心を持つ」ということは、しばしば、自分の価値観に相手をあてはめようとしたり、自分の思う方向に相手を動かそうとしたりするなど、相手を自分の枠組みに取り込んでしまうことになりがちです。アドバイスや指導をすることを前提とせず、まずは相手の言うことをそのまま聞いていただきたいのです。状況にもよりますが、例えば、子どもが「友だちとうまくいってないんだ」と言ってきたら、「そうなのね」と、まずは状況をそのまま受け止めるのです。子どもの状況は刻々と変わっていきますし、その子の中で何が起きているかは分かりません。我が子だからというだけで、初めから指導的、批判的にならないことがポイントです。私の父は、私の言動に対して、いつも「そうなのか」とだけ言いました。私にとって父は、たとえ失敗をしてもそのまま受け入れてくれる人でした。私がトライすることを恐れない人間になれたのは、父のおかげだと思っています。

おわりに ――あいまいさへの耐性を持とう――

最後に、対話を取り入れるために大切な「あいまいさへの耐性」についてお伝えします。対話では、正解だと思っていることが違っていたり、目指す結論が出なかったりすることがよくあります。対話の形式も、どの形式が最適なのかは最初からは分かりません。試してみて違和感があれば変更する柔軟さが必要です。それらは、失敗ではなく、学びの過程です。人が生きていく上で必要な本質的なことや大事なことほど、答えはすぐには分からないものです。今は大人も子どももすぐに答えを知りたがり、答えが分からないとすぐに不安になる傾向があるように思います。そうした時代だからこそ、正解への道のりが遠いことに対する耐性を持つべきです。対話の時間は終わっても、その人の中でずっと終わらない対話が続いていくのです。1人でも多くの人が、対話を通じて、あいまいさのよさや価値を感じながら、自身の世界を広げていただくことを願っています。

(本記事の執筆者:神田 有希子)

五十嵐 沙千子 (いがらし・さちこ)

筑波大学 人文社会系 准教授

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