前回は、日本の古典文学の研究者の1人として、生徒・学生が古典を学ぶ意味・意義をお伝えしました。それらを踏まえて今回は、高校における古典の授業のあり方や、指導する先生方に対する期待をお話しします。

生徒が「問いのどんぶり」を持ち歩けるようになってほしい

私はこれまで35年以上にわたり、大学で教壇に立ってきました。高校を卒業したばかりの学生にも多数接してきましたし、中学校・高校の生徒や先生方とは、講演活動や不登校生徒の支援活動などを通じて、今も対話する機会があります。最近は、高校を中心に、現場の先生方が「主体的・対話的で深い学び」の実践に苦労されている様子を耳にし、ご指導の大変さを想像しています。先生方にはぜひ、「生徒自身の問いを尊重した指導」をできる限り大切にしていただきたいと思っています。もちろん、基礎的な知識を身につけることの重要性は変わりません。極端な学力差が少なく、初等中等教育を受ける子どもたちの基礎力が世界トップレベルである点は、日本の公教育の強みでもあります。その土台の上に、様々な課題意識を持って自ら学びに向かう、言わば「問いのどんぶり」(=たくさんの問いで満たされている状態)を、生徒自身が持ち歩けるようになってほしいのです。

早稲田大学の入学式にて祝辞を贈った(2023年9月)。同大学では、国際文学館(村上春樹ライブラリー)の顧問を務めている。 写真提供:早稲田大学

一筋縄ではいかない学びだからこそ、
教師の指導そのものが生徒を成長させる

そのためには、教室の内外にいる人や生き物、自然現象など、一筋縄にはいかない存在と生徒たちが向き合い、「なぜだろう?」「どうすればよいのだろう?」といった問いを持つ機会に数多く出合うことが大切です。問いを持ったものの、答えがすぐ出なかったり、思うようにいかなかったりする過程を経験すること自体が、生きることの難しさや成功した時の喜びを感じたり、自分でも認識していなかった物事への向き・不向きなどに気づいたりするきっかけとなります。そうした経験や気づきを基に、新たなことにチャレンジしたり、自分をうまくコントロールしたりしながら、人間は成長していきます。古典の学びも同様です。初めから古典を自由自在に読める人はいませんから、日常使うことのない学びを通して、人としての成長に欠かせない経験ができるのです。古典に接し、苦労しながらそれを読み解く過程そのものが、生徒を成長させていきます。

読み解き方の指導だけが教師の役割ではない

私自身は米国で初等中等教育を受け、日本の古典に出合ったのは大学生になってからでした。日本の生徒よりはやや遅れての出合いでしたが、先生にも恵まれ、古典への興味・関心がどんどん深まっていきました。日本の初等中等教育における古典の授業では、教師は古典のテキストを素材に、言葉や時代背景の理解を促す役割を果たします。言わば、古典と教室の仲介者と言えます。生徒が独力で古典を読み解くことは難しく、必要な技術を会得するためには教師の指導が不可欠ですし、古典の豊かな表現や描かれた時代背景を伝えることで、生徒の興味・関心や主体的な「問い」を引き出すことも大切です。いずれも生徒にとっては一筋縄ではいかないけれども、誰1人こぼれ落ちることなく読み解けるようになり、古典の世界へいざなうのが教師の役割です。

さらにもう1つ、教師に果たしていただきたい役割があります。古典を通じて生徒同士がコミュニケーションを深めるためのモデレーター(調停者)としての役割です。国語の授業では、素材となる作品を味わいながら、生徒が各自の意見について話し合ったり、発表したりする時間があると思います。古典で描かれている世界は、生徒たちが生きる現代社会から遠く離れています。作品が書かれた時代の背景や文化・風俗と今との間に距離感があるからこそ、生徒たちは様々な感想を素直に、自由に話すことができます。古典がもし、生徒にとって身近な世界を扱うものだったとしたら、生徒と作品の距離が近いため、生徒から出る意見は同じ視点や現実味のある内容となる可能性が高く、自分とクラスメートとの間に意見の衝突が起きる恐れがあります。素材が古典であれば、そうした衝突がほぼ起こりません。クラスメートの、多様な視点からの意見を素直に、新鮮に受け止められるため、生徒間の距離がとても小さくなります。そんな距離感の差を先生が上手に活用して、生徒同士の議論をより活性化させたり、深く考えるように仕向けたりするモデレーターになっていただきたいのです。

言葉を立体的に捉えた指導のあり方を考えよう

古典と現代文では使われる言葉が異なることからも分かる通り、言葉は変化し続けています。若者特有の言葉遣いに眉をひそめる人もいますが、今の若者の日本語は駄目だ、困ったものだと考えている言語学者はいません。それよりも、長い文章を読む能力が社会全体で低下していることがデータからも明らかになっており、心配です。最近は、電話よりもメールで用事を済ませる人が増えました。20年前と比べて文字に触れる機会が増える一方で、社会で流通する文章が加速度的に短くなっています。それは世界共通の傾向です。文字を介したコミュニケーションの時間が増えると、「タイパ*」を重視する考え方が広がり、短縮語や絵文字などを使って効率的に意思疎通を図ろうとするからです。

*タイパ:タイムパフォーマンスの略で、時間を効果的に使おうとする人がよく使う言葉・考え方。時間対効果。Z世代の価値観を表す語として象徴的に使われることもある。

元々、長いコンテンツを記憶したり、それを他者に伝えたりする能力は、人間が本来的に持っているものではなく、長い年月をかけて脳が進化した結果、獲得した能力だと言われています。それがここにきて、ネットやスマホから得る、短く断片的な情報や、情報を授受する際の画面を右から左へ流すようなしぐさなど、電子空間での新たな読み書きの習慣によって、脳がそれに対応するように変化している、つまり、人の読み書きの能力が急速に変わりつつあると考えられているのです。

そうした能力の変化を、学校教育の現場ではどう捉え、対応していけばよいのでしょうか。私は、長文を扱うテキスト中心の読み書き能力と、日常的な言葉遣いで円滑な対人関係を構築し、維持する言語運用能力を両輪で育てていく必要があると考えます。学校教育においても、長文から成る評論や小説、随筆、報告書などを、腰を据えてじっくり深く読む能力を高める指導とともに、ネットリテラシーの向上や、日常的な言葉遣いで自分の考えを相手に適切に伝えるためにはどうすればよいかを考えさせる指導も大切にしていただきたいと思います。それだけではありません。今後は、言葉だけでなく音や絵、映像を使って内容を膨らませたり、凝縮したりすることがますます増えるでしょう。それらも含めて、学校教育で言葉を立体的に捉える指導のあり方を検討する必要があるのではないでしょうか。

国語教育が果たす役割は、ますます重要になるに違いありません。

(本記事の執筆者:神田 有希子)

 

ロバート キャンベル

Robert Campbell、日本文学研究者、早稲田大学特命教授、早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)顧問、 東京大学名誉教授。

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