米国で生まれ育った私は、大学生の時に出合った「源氏物語」をきっかけに日本文学に興味を持ち、来日しました。以来、日本で暮らし、近世・近代日本文学を専門に研究を深め、大学で教壇に立ってきました。今回は、日本文学を愛し、学び続ける1人として、日本の生徒・学生が古典を学ぶことの意味や意義をお伝えします。

「点を取るため」から解放されると、古典はもっと面白い

少し前に行われた、日本の高校生を対象とした調査研究(平成17年度高等学校教育課程実施状況調査)によると、古典(古文・漢文)が好きな高校生の割合は全体の3割に満たなかったそうです。私も委員を務めた中央教育審議会における、今回の学習指導要領の改訂に向けた議論でも、高校生の古典に対する心理的な距離感をいかに縮めるかが課題として挙げられました。

中等教育段階の授業で古典を学ぶということは、ほかの科目と同様、学びの成果が数値で評価されることを意味します。定期考査や入試で点数を取るための勉強であるとも言えます。つまり、古典の学習は、自分の進路実現に向けた階段を上っていくために必要な「装置」として機能しており、古典そのものへの興味・関心が深まったり、学びの途中で気づいた課題を自ら追究したりするものにはなっていません。しかも、大多数の生徒にとって、古典はこれから自分が深めようとしている分野と直結しているという感覚がありません。ですから、古典がつまらない、苦手と感じる高校生が多いのだと考えます。

しかし、大学に入ると、高校までとは異なる学びの機会が学生たちに与えられます。自分が専門としたい領域を自由に学び、どこまでも広く深く追究することが期待されます。そうした学生たちに向けて教養課程の古文や漢文を講義すると、彼らは古典の内容をとても新鮮で面白いと言って食らいつき、文系、理系の区別なく楽しく学びます。試験のために古語や文法を暗記する必要はありませんし、高校までの学習はあくまで入試の突破のために行った「過去の別物」と思えるからでしょう。純粋に古典を楽しめるのは素晴らしいことです。一方、古典が自分の専攻や将来の自分と隔離された存在だと割り切って捉えられている状況は、とても残念でもあります。

古典を読み解くと、時間軸の視点が加わり、
物事を立体的に捉えることができる

中学校や高校では、「平家物語」や「太平記」などを国語や日本史の時間で読むことがあります。試験対策としてそれらを読むと、物語の内容そのものよりも「関ケ原の戦いが何年に起きた」といった歴史的事実を暗記することを意識して読み進めてしまうことが多いのではないでしょうか。しかし、例えば「おあん物語」という江戸時代の作品を読むと、戦国時代末期の混乱が分かります。その様子は、今起きているウクライナやイスラエルの戦争のむごさと変わらない内容なのです。さらにさかのぼり、「平家物語」や「太平記」では、鎌倉時代末期に為政者たちが限られた資源を巡って争い、長きにわたって国が分断される様子がリアルに描かれています。それは、現在の世界の状況に極めて似ていませんか。

また、感染症や気候変動など、今を生きる私たちにとっては初めて起きた事象だったとしても、時間軸をさかのぼれば、過去に生きた人々が同様の事象を経験していることは少なくありません。例えば、江戸時代はコレラの流行による生活困窮者に対して、金銭や煎じ薬が給付されたことが記録されています。未知の感染症に対して人間が力を合わせて立ち向かう姿は今も昔も変わりません。人間の力を超えた神羅万象の中で、一人ひとりの人間がかかわり合いながらともに生きる意味や意義を、古典は教えてくれます。地理的な横の視点だけでなく、日本という同じ国で、日本語という同じ言語を使って、時間という縦の視点で物事を考えさせてくれるのが古典なのです。地理的な制約を軽々と超えて情報を得られる今日ですが、世界では様々な理念の対立によって戦争は続き、関係が分断されています。そうした社会にあって、縦の時間軸の視点も使って物事を立体的に捉え、人として寄って立つ足がかりがあることは人類の資産として重要です。

さらに、古典は歴史的文化的資産の宝庫でもあります。日本人の一部には、平安時代頃から日々の出来事を日記に書く習慣がありました。当日の気象から書き始めるのが日本の日記の特徴で、他国では知り得ない過去の天文学的事象が分かることもあります。日本国内の話に限っても、先の感染症に対する社会的実践があったことが知れたり、当時の食文化から恋愛観までの情報が得られたりする、その価値にも目を向ける必要があります。

以上のように、古典の学びを通して、人としての成長に欠かせない経験や知見を得ることができます。古典の指導や教材が変わりつつあるとはいえ、生徒が取り組みやすい古典学習にするという工夫は、まだ十分とは言えません。先生方には、生徒の内発的動機を高めるような授業を期待していますし、生徒の「古典をいくら学んでも実生活に役立たない」といった誤解を解いていただきたく思っています。

原文を読むことで得られる力がある。
それを学校教育で身につける

昨年、ウクライナを訪れ、今回の戦争にまつわる人々の証言集の和訳本を出版しました。翻訳にあたり、戦火の中で想像を絶する過酷な状況にあるウクライナの人々の心に、地理的にも生活環境的にもかけ離れている私の心が同調することができた気がしました。それは、彼らが置かれている現在の状況が、江戸時代の日本文学に描かれている人々の日常にとてもよく似ていたからです。それまで私は、日本文学を通じて、過去の日本で生きた人々の「証言」を読み続けてきました。その経験を通して、同様の状況にあるウクライナの人々とも響き合えたのだと思います。

『戦争語彙集』(岩波書店)

古典との触れ合いを通して先人に学べることはたくさんあります。人の生き方も現在と通じる点があります。作品を原文で読めるようになると、原文でしか獲得できない情報や情感に触れることができます。現在は様々な現代語訳やアニメ、マンガなど、古典へのハードルを低くした魅力的な作品をネットで容易に手に入れることができますが、学校教育ではぜひ原文を読む力を育んでください。生徒たちが自分の潜在的な能力を伸ばしていくためのばねとして、古典が活用されることを願っています。

(本記事の執筆者:神田 有希子)

 

ロバート キャンベル

Robert Campbell、日本文学研究者、早稲田大学特命教授、早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)顧問、 東京大学名誉教授。

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