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- 【誌面連動】『VIEW next』高校版 2024年度 10月号
【誌面連動】「先生なら、どうしますか?」共通の「物語」が失われた社会で 生徒が自分自身の物語をつくれるように
静岡県立小山高校 美那川 雄一
2024/10/15 09:30
教師としての指導観を問われた「あの瞬間」を、当事者の教師が振り返る「先生ならどうしますか?」。本誌で紹介したエピソードの土台となる教師の指導観について、ウェブオリジナル記事でより詳しく紹介します。
本誌記事はこちらをご覧ください。
美那川 雄一
同校に赴任して4年目。地理歴史・公民科。生徒の学力の状況にかかわらず、生徒が歴史の学び方を身につけ、歴史を学ぶ目的を見いだせる授業を追求している。
勉強をやめさせないために、学校をやめる理由を考えさせる
学校には来るけれども、教室には入れなくなり、1年次の途中で学校を去ることになったAさんに、私は学年主任として向き合いました。学年主任を務めるのが初めてだったこともあり、当初、「学年主任として、この学年から中途退学者を出したくない」という強い思いが私にはありました。担任はもちろんのこと、管理職、そして各教科担当も、Aさんが1人で自習する社会科準備室を訪れ、Aさんに声をかけてくれましたが、教室に入れないという状況は一向に変わりませんでした。
Aさんの原級留置が現実的になってくると、教室復帰の可能性を信じつつも、学校に残るか、それとも新しい一歩を踏み出すか、Aさんと話し合うようになりました。
ただ、今の学校に残っても、別の学校に転校しても、教室に入れなくなった理由が分からないままでは、同じことが繰り返されてしまうのではないかという危惧が私にはありました。なぜ教室に入れなくなったのか、その理由を突き詰めてみることは、次の一歩を踏み出す上で必要だと思いました。
「もしかしたら……」でもよいので、教室に入れなくなった理由が言語化できれば、新しい一歩が踏み出しやすくなり、次に選んだ道も歩きやすくなるはずと考えたのです。
Aさんはずっと、「勉強はしたい」と言っていました。この学校でなくても、ほかの学校、別の環境で、今よりも楽な気持ちで勉強ができるのならば、Aさんにとって学校をやめることはよい選択なのではないか。私たちが学校をやめさせないことにこだわることで、Aさんをこの先も悶々とさせることだけは避けたい。私はそう考えるようになりました。
だから「Aさんとは教室に入れなくなった理由ではなく、教室に入れるようになる方法を考えるべきではないか」と助言してくれた同僚に私は、こう言いました。「教室に入れなくなったという事実を受け入れた上で、勉強をやめさせないために、この学校をやめるという選択肢も考えているのであって、教室に入れるようになることにこだわって、このまま彼をここに留めたら、勉強をやめさせることになるかもしれない」と。
学校に行けないあなたは「ナシ」ではなく、「アリ」だ
「何とかして教室に行けるようになりたい」「中途退学はとにかく避けたい」。そう思っているのは、教師よりも生徒本人なのだと思います。それでもその生徒が教室に行くことができないのならば、私たち教師にできることは、教室に行けないという事実を受け止め、その上で生徒ができることを考えることではないでしょうか。そして、Aさん自身が、教室には行けなくなっている自分を否定せず、大切にできるように支援することではないでしょうか。Aさんに向き合う教師としての私の考えは、教室復帰から「次の一歩」へと変化していきました。
確かに今の日本では、16歳の多くが高校生として教室で学んでいます。しかし、その多くの16歳と同じであることが、本人の幸せにつながるとは限りません。少なくともあの時、教室に無理に入れさせようとすることは、Aさんの幸せにはつながらないと、私の中ではっきりしていました。
Aさんの可能性を学校での時間だけで教師が判断するのは不遜なことなのではないか。Aさんを「教室に行かなければ」という思いから解放し、教室に行けなくなった自分を受け止め、「じゃあ、これからどうすればよいのだろう」と、自分の人生を考え続けられるように支援したいと考えました。
私はAさんと話す際、教室に行けなくなったことを失敗と捉えるのではなく、今後に生かせる大切な経験として解釈しようとするようになりました。例えば、「社会では私たちはいろいろな人と接しながら生きていくけれど、限られた人たちとだけ接する仕事もある。自分は周りの目が気になるということが分かったのなら、そういう仕事を選べばよいと思う。今回の経験で自分自身のことが分かったのは、とても意味のあることだよ」というようにです。Aさんの今の苦労・苦悩には、次に向かうための意味があることを、Aさんに理解してもらおうと思ったのです。
どうか、教室に行くことができない自分自身を受け入れてほしい。そして「今の自分は教室に行くことができた頃の自分とは確かに違うけれど、教室に行くことができない自分も『ナシ』ではなく、『アリ』なのだ」と分かってほしい。そんな思いを持ってAさんと向き合い続けました。
失敗と思える経験も、別の角度から見ると、次の一歩のきっかけと捉えることができる。ほかの16歳の生徒と同じように高校生活を送ることができなかったとしても、失敗や苦労を意味のある経験にしながら、自分の人生の物語を紡ぎ続けてほしかったのです。
それぞれの物語をつづる生徒と向き合うために、私たちは学び続ける
かつては少しでもよい成績を取って、少しでも有名な大学に入学することが、社会的な成功を約束するという物語が流布していました。そのため、学校生活に適応できなくなった生徒は、皆が目指すその物語からこぼれ落ちた存在だとされました。少なくとも私が高校生だった頃はそうだったと思います。
しかし、右肩上がりの社会成長が終わり、かつてひな形として人々の念頭にあった成功の物語は説得力を失っていきました。それと並行して学校の役割も、大きな共通の物語を生徒たちに理解・共感させることから、生徒が自分自身の人生の物語をつくるための力を身につけさせることへと変わってきたように思います。
もちろん、私は今も教師として、「君たちにはこうあってほしい」というメッセージを生徒に送っています。今年度、私は2学年主任を務めていますが、学年集会では、「2年生は1年生を引っ張り、3年生を支える学校の中核だから、君たちが頑張れば学校はよくなる」「2年生での学業や委員会・部活動での頑張りが、3年生になった時に生きてくる」といった物語を生徒に語ります。それは、生徒が持ちがちな「3年生になってから頑張れば何とかなる」という安易な物語に対抗するためのものです。
しかし、私が語る「学校の物語」が自分には合わないという生徒が出てくることも予想されます。だからと言って、学校が「社会」の1つである以上、一人ひとりが好きなようにすればよいというわけではありません。
そこで私は、学校の物語を意図的に使っていることを自覚するとともに、人生は教師が語る物語と生徒が今の自分を描く物語の二者択一ではないこと、そもそも人は、様々な物語を媒介として、目的や場面に合わせて物事を捉え、物語を作り直しながら生きていることを自覚してほしいと、生徒に話しています。その上で、「学年主任の美那川」の考えに合わない人、今はそのタイミングではないと思う人は、それぞれの物語をつくればよいのです。
授業でも同じような変化が起きているのではないでしょうか。これまでの授業では、生徒は教師の提示する学び方に従って、教師の説明する内容を理解し、日々の学習や定期考査などで理解・記憶したことを再生産することが重要視されていました。そして、そのことを通じて大学受験で合格させることのできる教師が、指導力のある教師だと考えられてきました。
しかしこれからの授業では、生徒が自分の持つ資質・能力や目標、生活習慣に応じて学習に取り組むことが重要だと考えられています。私が担当する世界史では、教師の語る歴史的解釈を覚えるのではなく、根拠に基づいて生徒自身が解釈・構成した物語を提示することが求められるようになってきています。
学校、そして生徒を取り巻く環境は大きく変化しています。だからこそ、これからの学校は、人生には無数の物語があり、物語とは、自分の状況を踏まえていつでもつくり直すことができるものであることを生徒に伝えていく必要があるのではないでしょうか。
生徒たちは、私たち教師が想定していなかったような大胆な物語をきっとつづるはずです。そんな生徒たちと向き合い、彼ら・彼女らの物語をともに楽しむために、私たち教師はこれからも学び続ける必要があるのだと思います。