教育ジャーナリストの後藤健夫さんがお送りする連載「大人たちのアンラーニング」のススメ。今回も「学力」について、アンラーニングをオススメしたいと考えています。これまで見てきたような多様な学力が求められる背景を語り、それらによって変わりゆく授業やテストとはどういうものかに焦点を当てます。

多様な意見や考えを求める授業

前回は「学力が高い」「優秀である」ことから大学のアドミッション・ポリシーの在り方を考えましたが、「学力が高い」に関して多様な捉え方ができることをわかっていただけたかと思います。その一方で、日常に目を向けると、様々な能力が評価されていることがわかります。料理がうまい、高所で作業ができる、足が早い、高く跳べる、遠くまで跳べる、歌がうまいなどなど、医師や弁護士といった専門職に限らず、他人よりも優位な能力を評価されて生業を築いている人たちはたくさんいるのです。
どうして、教育、選抜試験は一面的なのでしょうか。

脱・正解主義を求めて

日本は明治維新以来、列強に追いつくために効率よく人材を育成してきました。いわゆる「工場モデル」です。一律一斉に同じことを学ぶ。高校、大学では教科による学力試験で学習者を輪切りにして想定する知識量に合わせてさらに知識を上乗せするかのように教える。その輪切りにする観点を多軸にすると非効率になるのです。共通一次が導入されようとした頃、大学が序列化されるという意見がありましたが、学力観が単一だったので、そう考えたのでしょう。日本が驚異的な戦後復興、高度経済成長を遂げたのも、こうした単一の学力観を徹底した、効率的な人材育成が功を奏したのだと言えるでしょう。

ところが、バブル経済が崩壊した後、「失われた10年」は既に「失われた30年」になり、他国では物価に合わせるかのように賃金も上昇していますが、残念ながら日本では賃金は上がっていません。また、ITや人工知能の発達は、知識をため込むことだけでは価値が乏しくため込んだ知識をいかに使うかを求めることになりました。インターネットの発達は世界をより近くして世界には多様な価値観が存在することを感じさせるようにしました。国際学生が全体の5割を占める立命館アジア太平洋大学(APU)では、国際学生に接していると日々アンラーニングを求められます。私たちの常識は自分たちの価値観に縛られたものに過ぎず彼らの価値観を受け入れることの必要性にいつも気づかせられます。

大学入試センター試験を改善する議論の中では「国語の問題は素材文を読む前に問題と選択肢を読む。なぜならばそこに必ず正解があるからだ」という意見がありましたが、実社会では正解が一つに決まるものばかりではありません。「真実はいつも一つ」とコミックのヒーローは言いますが、ロシアにおける真実(正解)、ウクライナにおける真実(正解)はあるでしょう。ただ、人が殺されている事実と向き合うことが大事なことは言うまでもありません。そのときにどのような正解があるのでしょうか。正解があらかじめ用意されている、正解が一つに決まるといった「正解主義」から脱することが重要です。大人のワークショップでもファシリテーターが答えを知っていると思ってか、ファシリテーターに正解のありかを求めるかのような仕草をする人たちを散見します。
まずは大人から脱・正解主義を求めてアンラーニングしたいところです。

「その場でなんとかする力」「正解を一つと想定しない出題」

大学入学共通テストも2年の実施を終えて、その姿形がはっきりとしてきました。何人かの高校教員と共通テストについて話すと「その場でなんとかする力を求めている」といった意見に触れることが何度かありました。数学でも国語でも英語でも日常をそれぞれの教科科目の見方・考え方を軸にして解答を求める出題が見受けられます。こうした出題は、事前に過去問を解いて準備することが難しく、その場で解決する力を求めます。「受験対策は過去問対策」と思っている人もいるかも知れませんが、そもそも出題方針が変われば過去問対策は無意味です。

一部報道で、大学入試センターが数学の平均点が低いことの要因として計算量が多かったことを不適切として計算量を調整することを発表しましたが、出題方針を見直すわけではないことにご留意を。共通テストにおいて、日常の中で、教科科目の見方・考え方を重視して、知識を活用しながら課題解決を図ったり探究したりする出題方針に変わりはないでしょう。
共通テストの対応として、普段の授業では過去問をたくさん解くのではなく、一つの問題を多面的に捉えてじっくりと考えることが必要だとする大学関係者、予備校関係者もいます。ある公立進学校では、数学の授業をグループワークで展開し始めたところもあります。価値観や物事の見方が違う人たちと共に1つの問題を考える中で、多様な意見や考えを取り入れながら問題に向き合っていくことが大事なのでしょう。

一方、文部科学省は大学に記述式の出題を求めています。これは「正解を一つと想定しない出題」を求めているのです。しかし、私立大学は「いまの試験日程では採点ができない」と言い張っています。これは選抜方式を一般選抜に偏って考えているからです。総合型選抜で、教科の履修範囲に影響されない総合問題を課せば良いのです。
年々、世界史や日本史の教科書が厚くなるのは誰に責任があるのでしょうか。そもそも高校で歴史をどのように学んで欲しいのでしょうか。高校教育改革を後押しするのであれば、大学の出題は網羅主義から脱するべきではないでしょうか。網羅主義を続けていたら知識爆発の時代に教えることが増えるばかりで、高校現場の負担は大きくなります。大学は高校教育を基盤に教育するのですから、網羅主義によるコンテンツベースの出題から教科科目の見方・考え方を重視した出題へと転換すべきでしょう。このあたりは私立大学にアンラーニングではなく、落ち着いて考え直していただきたいところです。高校教育改革を後押ししない知識偏重の出題しかできないのであれば、その科目の試験は共通テストで代替したら良いです。出題や選抜方式の重点を見直すことが、よりよい高校の授業を実現させることに繋がり、大学の授業もやりやすくなるのではないでしょうか。

そして、読者のみなさんには、前回挙げた「大学入学者選抜要項」の学力の3要素でいわゆる「思考力・判断力・表現力」がどのような能力を示しているかを今一度確認していただきたいと思います。これからの授業では「課題解決」「探究」が総合的な探究の時間に限らず、重要になることを理解してもらえると思います。

次回も「学力」についてさらに深掘りしていきたいと考えています。引き続き、これからの選抜試験について考えていきたいと思います。

後藤 健夫

教育ジャーナリスト

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