ブラジルで生まれ育った私は、小学生の時に日本人の男の子と仲よくなったのをきっかけに、日本語を学び始めました。大学在学中に日本の大学に留学し、大学卒業後には日本の大学院に進学して、日本文学や日本語教育について研究しました。そして、日本の大学で8年間にわたり英語と日本語の教員を務めた後、2023年4月から、埼玉県にある私立の中高一貫校の校長になりました。学校を率いる立場として、日本の学校教育の素晴らしさを改めて感じる一方で、学校をよりよくするための課題にも取り組んでいます。今回は、これまでの経験を踏まえて、日本の学校教育について感じてきたことをお話しします。

社会的スキルの高さは、学校教育のたまもの

日本で暮らし始めて13年が経ちました。これまで、様々な国の友人と日本について語り合ってきました。多くの外国人は、日本の魅力として、町がきれいなことや、電車が時刻表通りに運行することなどを挙げます。そうしたこととともに、私は学校の安全性も素晴らしいと感じています。ブラジルを始めとして、犯罪率が低くない国はまだまだあります。子どもが1人で登下校し、安心して学習できる学校があり、保護者が子どもの心配をすることなく仕事ができることは、世界的に見ればとても価値が高いと言えます。

温かくて栄養バランスの取れた給食や、レベルの高い理数教育なども、日本の学校教育の優れている点として外国人がよく挙げます。また、教育学の論文を読むと、子どもの集中力の高さを評価する内容がよく見られます。幼い頃から椅子に座り、机で学習する経験を積んでいることが、集中力につながっているのではないかと思います。

社会的スキルを育む教育も、日本の学校教育の強みでしょう。もちろん個人差はありますが、多くの日本人は礼儀正しく、誠実で気配りができ、周りと協調しながら物事をスムーズに進めると感じてきました。それは、毎日の掃除や学校行事、部活動など、集団での活動を中心とする学校教育のたまものではないでしょうか。例えば、日本の多くの学校では、「おはようございます」「こんにちは」など、コミュニケーションの基本として挨拶をするよう指導しています。私が校長を務める中学校・高校でも、「おはよう」「ありがとう」「失礼します」「すみません」の頭文字を取った「オアシス運動」を数十年にわたって続けています。どの生徒も私に挨拶をしてくれますが、私は挨拶について、学校で教わった経験がありません。日本人の礼儀正しさは、そうした日頃の教育活動の積み重ねによって身についたものなのだろうと思っています。

校長を務める西武学園文理中学・高等学校にて。校長着任後、初のスピーチとなった入学式では、「何でも相談にきてください。私が皆さんの盾になるから、恐れずに、楽しみながら挑戦しましょう」と語りかけた。

なぜ劣等感がある? なぜ自信を持てない?

一方で、学校教育が日本の子どもの成長にマイナスの影響を与えていると感じることもあります。日本で暮らす中で、日本人は劣等感が強い傾向にあると感じ、それを不思議に思っていましたが、日本の教育の状況を知るにつれて、その要因は教育にあるのではないかと考えるようになりました。

「ペドロは自信があっていいなあ」と、私は日本人の友人からよく言われます。しかし、私は数学が大の苦手ですし、日本語もまだまだ勉強中で、うまく伝えられないことがあります。だからと言って劣等感を抱くことはありません。その理由を考えて思い至ったのが、私は子どもの頃から周囲の大人によく褒められていたということでした。

ブラジルの学校にも、日本と同じように国語や数学などの授業があり、成績がつけられます。私の数学の成績は惨憺(さんたん)たるものでしたが、国語や英語は好きで、成績も上位でした。学校の先生や親は、数学の成績については何も触れずに、「国語や英語が得意なんだね。この調子で頑張って!」と、応援してくれました。私は、数学が苦手なままでしたが、それをあまり気にせずに、国語や英語の学習にまい進し、高校時代にはブラジル人に英語を教えるアルバイトをするほどの英語力が身につきました。そして、その英語力を生かして、国内では最難関のサンパウロ大学に合格し、奨学金制度を使って日本に留学することができました。私の強みを認めて評価し、得意な教科を伸び伸びと学ばせてくれる環境があったからこそ、私は今こうして、外国人でありながら日本の学校の校長になれたのだと思います。

日本人の友人の話を聞くと、日本の教師や保護者は、子どもの「できない点」に注目しがちではないかと感じます。「英語は得意だね」などと、よい点や頑張ったことを褒めることよりも、「算数ができていないね」などと、欠点を指摘されることが多いと、子どもは自分の得意なことに目を向けられなくなり、劣等感を抱いたり、自信を持てなくなってしまったりするのではないでしょうか。成績をつけること自体は、子どもが自分の学力を客観視するために必要なことですが、得意な分野にこそ目を向けて、価値づけをすることが大切ではないかと思います。

当時学んだブラジルの学校では、先生がそれぞれの子どもの強みを認めて評価し、得意な教科を伸び伸びと学ばせてくれた。国語や英語の学びにまい進したことが、自信にもつながった。

変化する社会の中で、どんなマインドを持つべきか

また、先に述べた通り、日本人の子どもたちは、社会的スキルが高く、協調性があることは素晴らしいのですが、一方で、自己表現をあまりしない傾向にあることは気がかりです。大学の授業で日本人の学生に英語を教えていた時、取り上げているテーマなどについて学生に意見を求めても、大半の学生が自分の考えを言おうとしませんでした。最初は英語が得意ではないから言わないのかと思っていましたが、英語を上手に話せる学生も自分の考えを言おうとしませんでした。彼らは、自分の考えに対して周りがどう反応するのかを恐れているように私は感じました。また、日本人は、集団での行動はよくできても、主体的に行動するのが苦手な人が少なくないとも感じます。例えば、上司や先輩など、誰かの指示がなければ次の行動をしないといったことです。

大学院時代、日本の公立の小・中学校の授業を見学した際に、子どもが自分の考えを周りに言う場面や、自ら考えて行動するような機会が、ブラジルと比べて少ない印象を受けました。日本人が自己表現や主体的な行動をあまりしない傾向があるとすれば、それは個人の問題ではなく、学校教育の中でそうした経験をあまり積んでこなかったからではないかと考えます。

教育は、学力をつけるだけでなく、マインドの形成そのものにも影響を与えます。教師や保護者など、子どもの教育に携わる人たちは、そのことを十分認識して、子どもたちと接する必要があると思います。特にこれからの社会は、生成AIが席巻すると予測されています。加えて日本では、少子高齢化社会となり、諸外国からの移民の受け入れが進むでしょう。文化や価値観などが異なる様々な国の人と協働して日常生活を営み、仕事をしていく際に、日本人の社会的スキルの高さは強みとなりますが、加えて、自己表現や主体性も重要になります。そうした社会の変化を踏まえると、日本人としてどんなマインドが求められるのか、どのような社会を創っていきたいと思っているのかを、いま一度考える時が来ているのではないかと思うのです。

マルケス ペドロ

西武学園文理中学・高等学校 校長

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