私は言語教育や日本語の教育について研究しており、全国各地で教育・研修活動を展開しています。中でも専門としているのが、「言語技術」と言われる領域です。独自の教育カリキュラムを作成し、私たち日本人が世界で活躍できる教育のあり方を、言語教育の視点で、30年以上にわたり考え続けてきました。今回は、言語技術の概説や、言語技術が必要とされる理由を、私自身の経験とともにお話しします。

「言語技術」を通じて、自国や文化に誇りを持つ人材を育成

言語技術(Language Arts)とは、大まかに言うと、言葉の用い方を技術として捉えた教育です。様々な文章において、内容や文脈を踏まえた思考を論理的に組み立て、相手が理解できるように分かりやすく表現する作文技術や、文法、文学教育などを広く含む学びの体系を指します。母語である日本語で言語技術を学ぶことで目指すのは、論理的、分析的、批判的に物事を考えること(クリティカル・シンキング)を通じた問題解決能力の育成と、自分が考えたことを多様な方法で他者に伝えることを通じて、自分自身が生まれ育った国・文化に誇りを持つ人材の育成です。

作文も国語も得意なはずの自分が、
文章が書けない!授業が分からない!

私自身が、言語技術の大切さを身をもって感じたのは、海外で教育を受けた時です。父の仕事の関係で、私は中学2年生から高校3年生までをドイツで過ごしたのですが、現地校での授業で使われる言語はドイツ語でしたので、とても苦労しました。しかし、最も苦労したのは、授業の進め方が分からず、授業についていけなかったことです。大量の資料を読んだ後、教師が資料に関する問いを投げかけ、生徒が答えるという対話形式で進む授業だったのですが、課題として穴埋め式や選択式などがなく、議論したことに対して、自分の考えなどを作文にまとめることがあたり前でした。私は読書が大好きで作文も得意、日本の中学校の国語の授業では困ったことは一度もありませんでしたが、ドイツの授業で出された課題の作文はどう書けばよいのか分からず、大変ショックを受けましたし、帰国後も夢に出るほど、本当に苦しめられました。

日本にはなかった欧米の「国語」教育

一方、ドイツ語圏以外の欧米諸国から来た生徒たちは、ドイツ語さえ理解できるようになれば、どの授業にも難なくついていっていました。私との違いは何に原因があるのか。その答えは、日本の国語の授業内容にありました。渡欧前に私が受けた日本の国語の授業は、教科書の文章を読み、内容や登場人物の心情を大まかにつかんで、教師の話を理解することを目指すものがほとんどでした。文章を一定の方法論に基づいて論理的・批判的に読み解き、その文章と関連する資料で理解を深めた上で、議論したり、自分の意見をまとめて文章などで表現したりするための技法を、私は体系的には学んできませんでした。しかしそれは、ドイツでは小学校段階から誰もが指導されてきたことでした。教師たちは、教科を問わずそれらの方法を前提として、生徒に問いを投げかけながら授業を進めました。しかし、私はそうした授業の経験がなかったため、問いの意図や、何をどこからどう考えればよいのかが、分からなかったのです。

作文の書き方を例に挙げます。ドイツでは、高校生くらいになると、生徒は小論文を始め、大量の文章を書くようになります。そのために必要な文章の書き方や書く内容のまとめ方、前提となる資料の読み解き方などは、小学校のうちから体系的に学びます。それがドイツの国語の授業です。一方、日本の国語の授業では、作文の書き方や文章構成の方法などは、基礎的なことを単発的に教わる程度で、文章の読み解き方も、自分自身の発信や表現を前提としたやり方ではありませんでした。そうした状況は現在も大きくは変わっていないように私は思います。

その違いに私が気づいたのは、日本の大学を卒業し、就職してからです。欧米のビジネスマンが言葉の力を駆使して、日本人との議論で常に優位に立って進めている様子を目のあたりにし、欧米人が受けてきた国語教育が社会で生きていることを見せつけられました。これはドイツ在住時以来のショックでした。その衝撃をきっかけに、日本の国語教育をよりよいものにしたいと私は考えるようになり、それを自分の活動の柱に据えることにして現在に至っています。

言語技術教育にいち早く注目したのは、
実践力が求められるスポーツ界と民間企業

活動を始めるにあたり、私はまずドイツの言語教育を改めて研究しました。そしてドイツ以外の欧米の国々の学校教育も視察しながら、複数国の母語教育へと研究の範囲を広げていきました。それらの知見を基に、日本における国語のカリキュラムを作成し、週1回、子ども向けの塾を開設して、言語の技術を指導するようになりました。

ドイツのボンにある総合学校を視察した時の様子。同校はドイツ在住時に自身が通った校舎でもあり、実際に学んだ教室の前での1コマ。当時は、ギムナジウムという大学進学を前提とした学校だった。教員は当時の友人。

しかし、私の活動にいち早く関心を寄せてくれたのは、学校関係者ではなく、スポーツ団体や民間企業の方々でした。例えば、日本サッカー協会です。現在会長の田嶋幸三氏が私の著書を読み、コンタクトしてきてくれました。スポーツの動作には、本人が無意識だとしても一つひとつにねらいや意図があります。監督も選手も、それを論理的に捉え、言葉によるコミュニケーションを通して戦術や方法論を考えていく必要があります。加えてサッカーは、監督の指示がリアルタイムでは届かないスポーツです。時々刻々と変わる状況を踏まえてどうすべきかを、監督の指示を待つのではなく、フィールド内の選手たちが考え、判断することが重要です。意図を持って行動し、それを相手に伝えながら対話をすることで、論理的にお互いを理解し、分析して次の行動を起こすことは、まさに言語技術を学ぶことで習得できる力です。実際、日本代表クラスの選手やコーチ陣は皆、サッカーそのもののスキルや知識だけでなく、優れた言語技術、論理力、分析力を持っています。これを裾野まで拡大しようとしたのが、田嶋会長でした。そしてその思惑通り、現在、日本代表チームが世界の上位レベルにあるのは周知の通りです。

文学作品や豊かな教養が、言語技術を底支えする

民間企業からのニーズも切実なものでした。多くは、社員の「読めない、書けない、話せない」状態を改善するため、既に何らかの研修を行ってきたものの、成果が得られていませんでした。そこで、企業としてはもっと根本的に何かを変える必要性を感じて、言語技術の育成に活路を見いだそうとしたわけです。とりわけ、書くことなどの表現する力に課題があることが多いのですが、作文の技法だけを指導しても、抜本的な改善には至りません。言語技術全体の習得を通して、外国人とのタフな交渉から、幅広い教養が求められる社交場でのトークまで、広い視野でコミュニケーション力を高めてもらうような研修を私は実施しています。例えば、論理的かつ批判的に物事を捉える力や、議論の場で自分の意見を明確に表現するためのスキルは重要です。だからと言って、論理的な文章作成の研修を組み込むだけでは、期待する人材を育成することはできません。欧米諸国のビジネスシーンでは、業務とは直結しないような著名な文学作品や自国の誇るべき文化などに対しても分析的に理解し、深い造詣を持って、その知見を周囲と共有できる豊かな教養が不可欠とされています。

国際化が進む社会において、1人でも多くの日本人が、他者を尊重しながら堂々と自己主張し、知的な会話も楽しめる力をつけ、よりよい日本社会を創っていってほしい。言語技術はその重要な一翼を担うものと私は確信しています。

(本記事の執筆者:神田 有希子)

三森ゆりか(さんもり・ゆりか)

つくば言語技術教育研究所所長

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