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新世代toi-time 第1回テーマ「『競争』の是非」
問い「学校教育に『競争』は不要なのか?順位づけ廃止の是非」

2025/12/12 16:30

F先生(4年目)からの問い
学校では、ひと昔前と比べて、生徒に「競争」をさせないようになっていると思います。しかし、競争することでモチベーションが上がることもありますし、負けて悔しがったり勝って喜んだりすることにも意味がある、と私は思います。最近は勉強だけではなく、学校祭でも順位づけすることはやめた方がよいのではないかという意見を耳にします。「生徒に競争をさせるシステムは控えるべきだ」という声について、どう思いますか。

コラム執筆者

市立札幌藻岩高等学校
對馬光揮(つしま・こうき)

1.競争の「是非」を問うべきではない

悩ましい「問い」をありがとうございます。
先日、甥と姪の小学校の運動会を参観しました。その小学校は私も卒業した学校で、懐かしさを覚えながら参観していたのですが、運動会の内容はこの20年で様変わりしていました。選抜リレーはなく、徒競走も「かけっこ」という名称になっていました。私の時は、徒競走でゴールした後には順位ごとに並ばされましたし、開会式では「紅白戦」という形で、それぞれの代表児童が挑戦状を読み合い、閉会式では優勝チームを称える時間がありました。しかし、今回参観した運動会ではそれら全てがなく、「勝ち負け」という概念が全く存在しない行事となっていました。
運動神経がよくなく、運動会に参加することが憂鬱だった私にとっては、結果ではなく頑張っている姿に拍手が送られるスタイルの運動会はとても素敵なものに思えました。一方で、隣にいた私の兄は「なんだか物足りないなあ」と言っていました。
運動ができない代わりに多少勉強が得意だった私は、テストの順位が教室に貼り出されて「すごいじゃん!」と言われると、勉強への自信とやる気がふつふつと湧いた記憶があります。一方で、勉強が苦手な人にとってはテストの順位が公開されることなんて勘弁してほしいことだったと思います。
このように、競争それ自体には人それぞれの考え方がありますし、同じ人でも得意不得意によって競争の善しあしは変わっていくものだと思います。そのため、競争の「是非」を一律に問うのではなく、「どのような場合に競争はプラスなもの、またはマイナスなものになりうるのか」という視点で議論することこそが、意味のあることだと私は思います。

2.共同体としての競争―「アゴーン」と「コイノーニア」―

私としては、「(1)勝利至上主義に陥らない」「(2)やることに楽しさを覚えている」「(3)その人自身が競争を望んでいる」「(4)自分の成長を信じている」のであれば、競争には意味があると思います。F先生の言う通り、勝てば自分の努力が報われて嬉しいでしょうし、負ければ悔しさゆえに次へのモチベーションにもつながることもあるでしょう。競い合うことによって能力や技術が発展するという側面もあります。したがって、上記4点が前提となっているのであれば、競争することに意味はあると思います。
一方で、私にとっての運動会のように、望んでもいないのに優劣がつけられ、足が遅いだけで(あるいは国語や算数ができないだけで)恥ずかしい思いをしなければいけない教育システムは是正されるべきだと思います。「大人やシステムの都合で『落ちこぼれ』が生まれてしまうことにNOをつきつける」というこの視点こそが、今話題になっている「自由進度学習」の中心にあるのだと私は思っています。
そう考えると、前述した運動会の場合、全員参加の種目で順位を競わないことはよいと思います。一方で、希望者による選抜リレーは順位をつけてもよいわけで、そこでは勝敗を決してもよいのかもしれません。また、F先生が言及している学校祭であれば、順位をつけることで盛り上がったり、優勝できなかったとしても「悔しいけど頑張ったよね」と友人間で称え合ったりする場面を私は何度も見てきたので、学校祭での順位づけにそれほどの問題は感じられません。ただし、前述した通り、勝利至上主義(勝利以外の動機がない状態)に陥らないことが絶対条件となります。
先日、哲学に関する本を読んだのですが、ギリシャ哲学には「アゴーン(競争)」と「コイノーニア(共同体)」という2つの特徴があり、オリンピックや演劇のコンクールなど、古代ギリシャでは様々な場面で「競争」が行われていたそうです。言語による競争、つまり論争も盛んで、相手の意見を批判し、自分の意見の優位性を主張することもしばしば行われていました。しかし、それは「敵をやっつけるための競争」ではなく、「共に高め合うための『共同体』としての競争」であり、この精神は現代に生きる私たちに大きなヒントを与えてくれるものだと思いました。
以上のことから、異を唱えるべきは「勝利至上主義的な競争」「落ちこぼれをつくる競争」「相手をやっつけるための競争」であり、成長を目的とした「共同体としての競争」には意味があると私は考えます。繰り返しになりますが、今回の「競争」というテーマをはじめとして、一律にどちらがよいか悪いかという「是非」を問うのではなく、「教育において、どのような場合であれば『これはよい』と言えるのか」という視点が大切だと思います。

3.「基本的信頼感」と「存在価値」

最後に、競争を採用する場合を含めて、全ての教育活動において私が最も意識していることを述べたいと思います。それは、心理学者のE・H・エリクソンが提唱した「基本的信頼感(basic trust)」というものです。基本的信頼感とは、自分を取り巻く世界を信じながら、自分自身にも価値があるのだと、無条件で自分を受け入れることができる状態や力のことを指します。基本的信頼感を獲得している人は、自分自身の「存在価値」を大切にすることができている(自分という存在そのものに価値があると思える)状態にあり、挑戦するマインドを持ち合わせているため、失敗したとしてもその経験を次の成長へとつなげることができます。
一方で、基本的信頼感を獲得できていない人は、他者からの承認の有無が自分の価値基準となってしまいます。その状態で競争の世界に飛び込んでしまうと、敗北した際のダメージは計り知れないものになります。つまり、成長のための競争ではなく、他者からの承認を得るための競争になってしまうということです。したがって、この基本的信頼感が教育活動の土台にあるべきだと私は考えています。
しかし、今の世の中では存在価値よりも「能力価値」が過剰に求められていると私は思っています。能力価値が重要なのは確かですが、その前の段階に存在価値があり、学校ではそれを子どもたち自身が大切にすることから始めなければいけないと、私は思っています。
「何ができるのか、もしくはできないのか」という能力価値が学校で求められすぎていることは、教育の問題点の1つです。だからといって、一律に競争を排除することにも私は違和感を覚えます。基本的信頼感と存在価値を土台にしながら、能力価値も高めていく。そして能力価値を高める際には、「落ちこぼれ」と呼ばれてしまう人たちを生み出さないことに留意して、効果的だと思われる場合には「共同体としての競争」も採用する。そのバランスを考えていくことが、これからの教育に必要なことだと私は思います。

オススメの本:『教育の力』(苫野一徳 著、講談社)

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