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新世代toi-time 第14回テーマ「生成AIとどう向き合うべきか」
問い「生成AIは教育を変えるのか」

2026/07/28 08:00

「ベネッセ解説」(2026年7月3日公開)に記された問い

 

理想を実現するために、教師は、学校は、生成AIとどう向き合うべきか。

 

コラム執筆者

市立札幌藻岩高校
對馬光揮(つしま・こうき)

コラム末で、筆者が日々の授業実践や学びの記録を発信するウェブサイトを紹介しています。

7月3日に公開された「ベネッセ解説」(VIEW next編集部 河野  仙一さん執筆)に記された問題提起は以下。

河野「生成AIは、これからの社会を生きる子どもたちにとって、ごくあたり前の存在になっていく。だからこそ学校に求められるのは、その利用を一律に制限することでも、無条件に受け入れることでもない。教師は、学校は、生成AIとどう向き合うべきか。」

「生成AI」をテーマにこれまで3回に分けて私見を述べてきましたが、最終回となる今回は、「生成AIとどう向き合うべきか」という問いを、「私たち教員は、生成AIとどう向き合うべきか」という視点から考えてみたいと思います。その上で、本コラムのタイトルを「生成AIは教育を変えるのか」としました。

私の知り得ない生成AIの可能性やリスクがあることを承知の上で、目の前にいる生徒たちとどのように向き合い、私たち教員はどうあるべきなのか、考えていきたいと思います。

先日、ある学校関係者の方が、「自分の力で学ぶためにも、できるだけ子どもたちに生成AIを使わせてほしくない」と仰っていました。
私は大学で平安時代の古典文学を専攻し、「古いもの」全般に強く惹かれてしまうタイプなので、人間の手触りやその営みが感じられない生成AIに対して抵抗感を抱く気持ちはよく理解できます。
しかし一方で、「これからの社会を生きる子どもたち」にとって、生成AIは特別なものではなく、ごくあたり前の存在になるのは明らかなことです。そうである以上、河野さんのいう通り、学校は、「使わせるか、使わせないか」ではなく、「生徒たちが生成AIとどうつき合っていくのか」を考えなければいけません。

そして私は、生成AIが学校教育にもたらす最も大きな変化は、新しい技術の活用それ自体ではないと思っています。
私たち教員が、改めて「教育とは何のためにあるのか」という問いに向き合うようになったことが、本質的な変化だと感じています。以下、その理由について論じていきます。

前回のコラムでもご紹介した塩瀬隆之さん(京都大学総合博物館教授)は、「馬と飛脚」の例えで、学校教育とAIの関係を次のように説明しています。

馬を目の前にして、飛脚を育てる人たちは何を考えたのか。まさか、馬よりも速く走る飛脚を育てようとはしないだろう。馬に乗ればいいと気づき、その乗り方を教えるはずだ。さらに言えば、馬は、飛脚の仕事を奪おうとは考えてもいない。

それと同様に、私たちはAIと勝負する必要も、敵視する必要もありません。生徒がAIを自分たちの力として活用できるよう支えることが、学校の役割の一つになるのだと思います。

ところが、ここで一つの壁に突き当たります。私たち教員自身が、生成AIについて十分な専門性をもっているわけではないため、その使い方を生徒たちに教えるのには限界がある、という現実です。

もっとも、このような状況は教育史上初めてのことではありません。インターネットが学校に普及し始めた頃も、多くの教員はネットについて体系的に学んできた世代ではありませんでした。それでも自ら学びながら教育に取り入れ、やがて議論は「使わせるかどうか」から「どう使うか」へと移っていきました。
ただし、生成AIの登場はそれとは決定的に異なります。インターネットが学校に普及し始めた頃、生徒たちが日常的にパソコンに触れる機会は限られていました。そのため、教員が生徒より一歩先に学び、教育へ取り入れる時間的な余裕がありました。
一方、生成AIはすでに生徒たちが日常的に利用しており、操作や活用の面では、教員を軽々と追い越していく生徒がほとんどでしょう。

だからこそ、教員の「専門性」とは何かを改めて考え直す必要があると私は感じています。私たち教員が目指すべきなのは、生徒よりも生成AIに詳しくなることではありません。大切なのは、生成AIとどうつき合うべきなのかを、生徒自身が「考える」力そのものを学校で育てることです。

例えば、生成AIが作成した文章や画像を自分の成果物として提出することは、学問的誠実性の観点から考えるとどうなるのか。生成AIの答えを疑うことなく受け入れることは、自ら考えることを放棄することになるのではないか。そして、生成AIが社会に大きな影響を及ぼす時代だからこそ、その利便性の裏側にある責任とは何なのか。

そうした問いに唯一の正解はありません。だからこそ学校で問い続け、対話を重ね、考え抜く必要があります。
生成AIの操作方法は数年後には大きく変わっているかもしれません。そもそも、現在のAIの発展スピードは、AI研究者ですら予測できない段階に入っているそうです。そうであれば、AIに関する専門性をもっていない私たち教員がAIの未来についてあれこれ予測するよりも、注力すべきなのは、「いま、目の前の生徒たちと向き合っている私たち教員だからこそ、できることは何か」を正面から考えることではないでしょうか。
したがって、先ほど述べたような、学問に対して誠実であること、自ら考え続けること、そして自らの選択に責任をもつことは、どれだけ技術が進歩しても変わらない、学びの土台だと言えるため、そうした資質を育むことが私たち教員に求められていることだと私は感じています。

そのように考えると、私たち教員が育てるべきなのは、「生成AIを使える人」ではなく、「生成AIとともに生きる社会の中で、何がよいのかを問い続け、考え抜くことができる人」だと思います。
そして、「問い続け、考え抜く」という営みは、人類が長い歴史の中で積み重ねてきた教育そのものであり、そのことはこれからも変わらないはずです。

冒頭で述べた通り、私の知り得ない生成AIの可能性やリスクは確かに存在します。しかし、生成AIによってパラダイムシフトが起きたとしても、教育が担ってきた「問い続け、考え抜く人を育てる」という役割が根本的に変わることはないと、私は考えています。ただし、詰め込み教育からの脱却に「本気で」取り組まなければいけないなど、教育のあり方は大きく変わるはずです。
そうであれば、生成AIは教育の本質を変えるのではなく、私たちが意識的に目を向けることがなかったかもしれない「教育の目的」を、もう一度思い出させてくれるものなのかもしれません。

以上のことから私は、「生成AIは教育を変えるのか」という問いに対して、このように答えたいと思います。

生成AIが世の中を変えたとしても、教育の目的そのものは変わらない。しかし、その目的にふさわしい教育のあり方は、大きく変わる。だからこそ生成AIは、「教育を変える」のではなく、「教育を取り戻す」存在になるのではないだろうか。

生成AIをテーマにした私のコラムは以上となります。

問い「生成AIは教育を変えるのか」
2026/7/28 對馬光揮(つしま・こうき)先生(北海道・市立札幌藻岩高校)
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2026/7/14 對馬光揮(つしま・こうき)先生(北海道・市立札幌藻岩高校)
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2026/7/9 對馬光揮(つしま・こうき)先生(北海道・市立札幌藻岩高校)

本稿が新たな気づきを生み、読者の皆さまが「生成AIとの向き合い方」について考えるきっかけの一つになれば幸いです。

對馬が授業実践や学びの記録を発信しているウェブサイト:マナブベイ

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